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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

佐伯啓思 『倫理としてのナショナリズム』NTT出版 2004年

キーワード:倫理、グローバルな市場経済、リベラリズム、自由、平等

     あとがきのなかに、「現代日本で起きている人騒がせな『構造改革』と、社会的な倫理観・道徳観の崩壊は、けっして無関係だとは思われない」とある。「ホリエモン事件」の1年以上も前に、著者はこうした事件の起きることを予告していたようにみえる。

著者によれば、ポスト工業化は、市場のグローバル化によって新たな社会に移行する。その特性は3つある。
1.長期安定から短期フレクシビリテイへ:過激なコスト競争はより早く、より安くを求め、個人の自由行使の前提条件であった雇用の確保を困難に。人的資本の価値が短期的市場の動向にさらされ、長期的な関係の継続において意味をもってきた平等性、対等性、公平性といった倫理的なるものが消滅。

2.不確実性からリスクへ:グローバルにつながったシステムにおいて生じる、システムのご操作によるリスク。システム関与者は同等にリスクを負うのであり、階層や人種などによって構造化されていない。リスク回避は、専門家や行政による説明責任、情報公開のうえでの個人の責任(かくして、平等の問題は倫理的課題として提示できず。労働者階級へ補償し、貧困層の生活保護を行う福祉主義は、もはや重要な意味をもたない)。

3.あらたな層化の進行:所得分配の階層化ではなく、市場への接近の可能性とそこから生じる活動の意味構造の相違による大衆的重層化。層は、所得や学歴によって構造化されておらず、個人の選択にもとづく文化的様式の相違であり、「階層的嫉妬」が生じがたく、平等性への強烈な訴えが生じてこない。代わりに、つかみどころのない不安、システムそのものにたいする不信感(倫理的要請は、せいぜい、生命や生活をおびやかすリスクにたいするシステムによる管理と自己責任)。

つまり、市場経済のグルーバル化のなかで、自由や平等を倫理的要請として提示する共通の了解が見失われてしまった。

 ではどうするか。ポスト工業社会の倫理的課題は、たんに生活維持ではなく、効用を高めるのでもなく、何が善き生活か、何が価値ある生かを問い直すことである。

 他者や共同社会とのつながり、信頼、つながりや共同活動への参加を通した承認や是認。こうしたものが善き生と関連づけられる。

 これまでソーシャルワークは、まずは、自由(自己決定や自立)や平等(公平、公正としての社会正義)を目指して支援することを前提としてきた。だが、今後は、信頼やつながり(インクルージョン、ソーシャルサポート)までをも目指した支援、あるいは、それに焦点を当てた支援を、いっそう考える必要があるかもしれない。
No9 山脇直司『公共哲学とは何か』ちくま新書、2004年

キーワード:公共哲学、ポスト専門化時代、民の公共、グローカリズム

 近年、よく聞かれる公共哲学という言葉。なんとなく想像できるけれど、では、一言で説明せよ、と言われるとちょっと困る、そういう人が読んで「ああ、そうか、これでOK」と言える本であり、「この先をもうちょっと読まないと、、、」と思ってしまう本。公共哲学の第一人者である著者の、公共哲学入門本である。
   公共哲学は、滅私奉公や滅公奉私に対抗する「活私開公」の理念を追求し、タコツボ的「学問の構造改革」を目指す運動であり、「ポスト・イデオロギー時代」における「理念と現実」を統合し、「自己―他者―公共世界」の相互関連性を理解する学問、なのだ。よくわからん、という人は本書を見てください。
   社会福祉でもお馴染みのロールズの正義論やコミュニタリアニズム、ソーシャルキャピタル(信頼関係のネットワーク)、ケアという「市民的徳性」、「民の公共の担い手」としてのNPO、グローカリズムなどが、ああ、このようにつながるのだな、と理解できる。社会福祉の政策論を学ぶ人だけでなく、実践論を学ぶ人、実践する人もまた、公共哲学に関心を寄せるべし。
   個人的には、「民の公共」の場、あるいは、担い手としてのNPOの重要性について、NPOのもつ限界や課題も含めて、もっと勉強してみたい、と思った。
   本書のなかで紹介されている公共哲学ネットワークのHPを覗くと、公共哲学に関する文献情報を得られるだけでなく、書評とそれへのリプライの仕方を学ぶこともできる。

No5 大岡頼光『なぜ老人を介護するのか:スウェーデンと日本の家と死生観』けい草書房、2004年

キーワード:福祉国家、老人介護、規範意識、人格崇拝、死生観、共同墓

 2000年度からスタートした介護保険をどのように持続可能な制度に改変するか、介護保険を支えるケアマネジャーの質をどのように担保していくか。そうした実践上の議論ばかりを見てきた私にとって、「なぜ老人を介護するのか」という問いが新鮮で購入した。
 私は、介護保険によってサービス利用意識や権利意識が高まったという見方をしている。また、最近は、高齢者の虐待やネグレクトに関心をもっている。だから、「介護は身内のものがすべき、福祉の世話になるべきではない」という規範意識(大岡さんはこれを「家の境界」意識と言っている)が日本には強く残っている、それが、自分の問題関心の出発点だと序に書いているのを読んだときは意外な感じがした。でも、こういう別の見方って、きっと大事。
 未来の労働力ではなく使い終わった労働力としての老人を公的に介護する、それを正当化する論理は、彼によれば「人格崇拝」の観念だ。分業化が進み、複雑化した社会では、個人の多様化も進む。そうしたなかで、私たちが唯一共有できるのは「聖なる人間性=人格」である。だから、私たちは「人格」に価値を与えることになる。「人格崇拝」のもとでは、老人はなんら成果を生み出さなくても、人間性をもつ限り「聖なるもの」であり、聖なるものへの儀礼として、老人の介護を公的財源により行うことが可能になる(2章)。
なるほど。もっとも、これは老人介護だけでなく、年金、医療などすべて政策(つまり、福祉国家)の正当化の論理だけれど。この論理を使えば、老人福祉法の第2条(基本的理念)「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。」という条件つき敬愛と保障は、大いに批判できる。
この本を読んでいて面白いのは、「人格崇拝」が同時に保障の打ち切りにもつながるという話や、効率性に貢献しうる可能性をもつ人間にのみ「人格」を認める政策が行われる、だが、スウエーデンでは家族にも社会にも貢献しなかった老人を保障をする「国民の家」という論理があった、といった話、さらに、日本の養子制度や無縁仏、共同墓、生まれ変わりという観念の検討などなど、福祉国家の規範意識をめぐって、思考が広く展開していくところである。
福祉は無縁の者を保護・救済するところから始まり、家族のいる者にまで広く援助・支援するものになった、と理解してきた私にとって、なぜ、無縁の者にまで保障するのかを宗教社会学などの観点から検討するという試みは興味深かった。
No.4 アミタイ・エツィオーニ『ネクスト:善き社会への道』麗澤大学出版会、2005年

キーワード:コミュニタリアニズム、善き生、善き社会、公共哲学

エツィオーニといえば、古くから社会学の第一人者で組織論の大家。その人が1990年頃から主張していたというコミュニタリアニズム。今度翻訳が出て、朝日新聞の書評欄でも取り上げていたので読んでみた。9.11の前に書かれた本なので楽観主義的な感じはするが、民主党よりの中道主義にもとづく理念と政策提案の多くは、納得のいくものだった。
「善き社会は物質的な豊かさの水準をさらに向上させることの上に構築されうるのか、または、私たちは、善き社会を、互恵や精神性といったその他の諸価値の中心に据えようと努力するべきか」道徳的対話を重ねる必要があると、エツィオーニは言っている。
ただ、アメリカのある大学院に留学してソーシャルワークを学び、アフロンアメリカンの多いコミュニテイで実習を体験している私の若い知人の体験談などを聞いていると、彼の言う道徳的対話は、ローカルなレベルではなかなか難しいように感じる。難しいがゆえに、こうした主張が強くなされるのかもしれない。
監訳者の小林正弥さんによる「解説」はとってもわかりやすい。実践を通して善き社会や善き生の実現を支援していくソーシャルワーカーも、ときにこうした本を読んでみたらどうだろう。