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No85 横田恵子編著 『解放のソーシャルワーク』 世界思想社 2007年

キーワード:解放、ソーシャルワーク、クリティカル・ソーシャルワーク

解放=emancipation。No84で紹介したアメリカの児童保護ソーシャルワークの文献では、このemancipationを「自立」と訳していた。グループホームや里親の下で育った子どもが18歳になり、児童保護システムの下から「解放」され、ひとり立ちすることだ。要保護の子どもたちにとって、児童保護システムは管理支配する「抑圧的」な側面をもっているから、そのシステムから「自立」することは「解放」に違いない。

では、「解放のソーシャルワーク」とは?何からの解放?
編者によると「通常のソーシャルワーク実践から自由になる」、「通常、繰り返されている援助概念や方法のあれこれでいいのか?」ということらしい。つまり、これがソーシャルワーク、というこれまでの「思い込み」を捨てるだけでなく、それを批判的にとらえなさい、ということ。

それでは、どのような視点から批判的にとらえよ、というのだろうか?

編者の横田さんは、1章「ソーシャルワーク実践家における援助技術教育――普遍的モデルの多元的再検討」において、「ソーシャルワーク実践者養成教育を、激変する現代社会におけるあらたな公共性の担い手を養成する教育と位置づけ」、特に、「エンパワメント概念の理解を伴うアクション志向の実践的経験」させることを重視している。つまり、バルネラブルな人々のエンパワメントを支援していく、開発学でいうところの人権アプローチの視点から批判的に、である。

2章「解放のソーシャルワーク」で木原活信さんは、「人間の解放」という視点に立つこと、すなわち、「利用者を取り巻く状況や社会環境が利用者自身を不当に抑圧していると同定して、その状況から解放するということ」に焦点を当てることだと言っている。その「解放」の視点として採用できるのが、「古い物語」「ドミナントストーリー」からの解放をもたらす、ナラテイブの「ミクロな援助介入」モデル。

ただし、それだけでなく、「貧しさの視点」、「弱さの視点」つまり、「専門家の視点ではなく当事者の視点」に立って(=「無知の立場に立つ」)、「専門職、介護保険、地域福祉、尊厳と自立、社会適応などをあらためて再解釈し、あたらしい解放の物語を構築すること」も課題だとしている。

オーストラリアのクリティカル・ソーシャルワーク理論の概説ともいえる4章では、クリティカル・ソーシャルワークをつぎのように定義(?)している。「マルクス主義、批判理論、フェミニズム、ラデイカルヒューマニズム、解放の神学、ポストモダニズム、ポストコロニアリズム、緑の政治理論、反グローバリゼーション理論といった幅広い理論的枠組から成り立つ」もの、「社会正義、人権、社会変革」といった概念を共有している。

メインストリームの言説にチャレンジする言説にもとづけば、すべてクリティカルな視点をもったソーシャルワークと言えるということ?
ここまでのクリティカルな視点は、特に目新しいものではない。

5章「クリティカル・ソーシャルワーク試論」では、加茂陽さんが、わが国のソーシャルワーク研究者やソーシャルワーカーの批判的視点の欠如を批判したうえで、「細部の変革にちからが宿るという視点」からクリティカル・ソーシャルワークを論じている。

従来のソーシャルワークであれば(?)、「洗練された命題的な現実の説明法、規範論、自己論を保持するソーシャルワーカーによって(クライエントの訴えが)再構成され、さらに、その結果原因を除去するべく解決行動が示される。多くの場合そこでは表層的には合意が成立する。問題定義と解決法が特殊な前提の上に構成されたものにすぎず実在しないなら、解決行為が試みられるほど、クライエントの苦悩は増幅し、常同的解決行為が試みられる悪循環が作り出される」

ワーカーは、「洗練された知識体系」をもつ立場から「解決策の一致点」にたどり着こうとするが、それ自体が「ひとつの文脈依存的な特殊な現実構成法にしかすぎない」のであるから、「一致を前提とするこの援助場面においては、解決行為は一種のソーシャルワーカーの状況操作であり、その操作の正当性の根拠が不在である限り、事態は悪化し、矛盾増幅という悪循環が展開することになる」

この悪循環のメカニズムを変容させる戦略は、「理性的議論によって評定と変容に関しての合意を求める方法論ではなく、反対の差異化」であって、「クライエントのパターン化された内閉的な解決行為に亀裂を入れるノイズの投入」である。すなわち、「新たに『として』現実を生成させる」ことである。

ウーム。ソーシャルワークの支援論モデルは、もうすこしわかりやすいものがいい、、、、。
加茂さん編の『被虐待児への支援論を学ぶ人のために』を読めば、具体的にわかるらしい。

それにしても、なぜ、多くの場合の合意が表層的で、問題定義と解決法が実在しない、と仮定するのだろう?そういう場合が少なからずあることは認めるけれども、クライエントも納得して合意し、解決行為を試みることで苦悩の減少が少なからず見られるからこそ、それらの言説の制度化が促進されたはず。
制度化され権威をもった言説とそれを学習した援助者は、例外をみとめず、「表層的合意」づくりを強制的に行ってしまう運命にあるからか。 

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