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No93  斎藤環 「サブカルチャーとともに大人になること」
(苅谷剛彦編著 『いまこの国で大人になること』 紀伊国屋書店)

キーワード:社会的ひきこもり、成熟

摂食障害の娘や不登校からひきこもりになった息子は、機能不全家族のIP(Identified Patient)である、だからアディクション・アプローチと同様のアプローチで、その親たちにカウンセリングを行う、という実践を10年くらい前に体験したことがある。

斎藤環さんの『社会的ひきこもり』では、まだ、機能不全の家族の問題としてとらえる見方が多少残っていたように思う。だが、「サブカルチャーとともに大人になること」では、完全に成熟問題としてとらえられているのではないか。

斎藤環さんによれば、近代化は子どもを労働から解放し、モラトリアムを長期化した。だから、当然、成熟度は低下していく。経済の豊かさと地縁・血縁の希薄化は、個人が何かを犠牲にしてまで「関係」を持続する意義を失わせ、アイデンティティ(=自己定位をするナビゲート感覚)を支える価値観を相対化・不安定化する。だから、アイデンティティ拡散は必然ということになる。

成熟は絶対的な価値ではなくなったのだ。それは、「登校拒否」が「不登校」となって、「拒否という問題状況」から「状態としての一般化」となったことに象徴されている。

かつては、人がつながりあうために、社会と成熟が必要であった。だが今は、ケータイやネットが媒介する。そのケータイやネットに参加するには、「未熟」でなくてはならない。

では、斎藤さんは、成熟拒否は成立するかというと、そうではないと言う。かつての全人的な性格に至るための成熟はもはや不可能だが、ケータイやネットによるつながり力を不当に未熟呼ばわりせず、成熟の意味内容の変容ととらえるべきだと主張する。

それは、万能感を失う=分を知ること=成熟、ではなく、自由になること=成熟、言語で自由に語る人間になること、だと言う。

それでは、失敗恐怖の「ひきこもり」の若者たちが、ケータイであれネットであれ、「自由に語る」ことができるようになれば、それがかれらの成熟なのか。「自由に語る」には、うなづいてくれる聴き手が必要ではないのか。

いずれにしても、成熟の意味が変容しつつあるらしい。従来の全人的な人間、内省ができ自己統制できる人間になることが成熟とは限らない、というのなら、今やソーシャルワークという社会的援助活動の指向する人間像も点検しなければならないのだろうか。それとも、国家が権威づけするソーシャルワーク実践はあくまでも1つの人間像を指向せざるを得ないのか。


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