FC2ブログ

Book+

福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |
番外編 No9 マイケアプランと「ネットワーク公共圏」

介護保険のケアプランの作成をケアマネジャー(介護支援専門員)に依頼しないで、自分で作成しよう、というマイケアプランの活動をご存知だろうか?

代表の島村さんやその仲間たちが、マスメディアによく登場しているので、知る人ぞ知る、という活動である。

介護保険実施当時から3年間、義父母のケアプランを自己作成していたので、当時、私もマイケアプランに参加した。いまは自己作成していないのだが、そのまま会員になっていて、MLにも加えてもらっている。

このML、会員の情報交換の場として大変機能している。ひとりの会員が、これこれについての知りたいのだけれど、、と書けば、ほとんどすぐにいろいろな情報が各地にいる会員から寄せられる。さらに、行政のこの対応って、おかしくない?と書けば、うちの市だけは違うとか、それもおかしくないのでは?とか、やはりおかしいよね、といった意見交換がなされる。

交換される情報も意見もみな質が高く、どれも説得的で、フムフム、と勉強させてもらっている。

このマイケアプランの活動は、例会やニュースレター発行のほかに、出前講座や講演会、ワークショップなど多彩だ。また、代表は、厚生労働省や都などの政策審議の場にも参加し発言しているが、そのときも、MLで意見を募ったり、報告をしたりしている。

これって、干川剛史さんのいう「デジタルメディアを媒介としたコミュニケーションによる関係のネットワーク」、つまり、「デジタル・コミュニティ」のなかでも、「多様な人々が共通関心事としての社会問題解決にむけて人的ネットワークを形成し拡大していく方向」をもつ、「公共性志向のデジタル・コミュニティ」と言えるだろう

こうしたコミュニティが、世論形成・実践活動空間としての「公共圏」を成立させるのだ。「当事者主権」を実践してきた中西さんたちの運動もまさに、「公共圏」としてのデジタル・ネットワーキング・コミュニティを作り上げてきた。

ITによって、意欲さえあれば、一市民として「公共圏」構築に参加できることを、改めて確認した次第。

干川剛史「ネットワーク公共圏」の可能性( 船橋晴俊『官僚制化とネットワーク社会』 2006年、ミネルバ書房)

スポンサーサイト
No.86 藤川麗 『臨床心理のコラボレーション:統合的サービス構成の方法』 東京大学出版会2007年

キーワード:学生相談室、協働、コラボレーション、臨床心理サービス

大学の学生相談室というものは、臨床心理士や精神科医(非常勤?)がいて、学生のメンタルな問題についてカウンセリングする場だろう、と認識していた。藤川さんによると、いまは、こうしたクリニック・モデルではなく、統合的モデルが試みられているとのこと。

これは、臨床カウンセリングをおこなう心理カウンセラーと、学習相談を中心におこなう学習相談員(研究/教育者の卵)のコラボレーション(協働)による援助、というモデルである。

本書は、その統合モデルの学生相談システムづくりの過程、異職種間のコラボレーションの実態、運営委員会や大学システムと学生相談室とのコラボレーション、統合モデルにおけるコラボレーションの利点と課題、などをトライアンギュレーションの方法により多面的に説得的に明らかにしている。

得られた知見は、藤川さんが言うように、ソーシャルワークのような他領域にも参考になるものが少なくない。

本書は、自分自身の職場であった学生相談室を調査対象として研究した藤川さんの博士論文である。テーマ設定の説明から始まって、先行研究のレビュー、研究方法についての説明、調査方法、データの的確な分析、結果からのモデル生成、先行研究と照らしてのモデル生成の意義と課題の言及、実践者がおこなった研究についてのリフレクションなど、実践に関する研究と論文作成のお手本だ。

質的研究に取り組むソーシャルワークの研究者、また、自分の職場や実践を整理し分析してみたい、と考えている実践家にとって参考になる。

著者自身も触れているが、実践家である著者による自分たちの実践に関する調査研究のため、情報収集に偏りがないか、異職種間のコラボレーションの活動実態分析がやや表面的ではないか、という疑念は多少ある。しかし、当事者だからこそ、ここまで実践とシステムの全体を総合的にとらえることができたと思われ、その点を大いに評価したい。

番外No8 
ジャン=ドミニック・ボービー/河野万里子訳  『潜水服は蝶の夢を見る』 
講談社 1988年

映画にもなり、2007年カンヌ映画祭監督賞を受賞した作品。ある日突然、ロックトイン症候群に陥った、雑誌ELLE編集長のボービーの手記である。彼は、唯一残された左目の瞬きだけで本書を綴った。

ほとんどすべての身体機能を奪われた不条理にもかかわらず、憤怒と絶望の池から浮上してくるこの力は、周囲の人々への関心・共感と静かな怒り・悲しみをもち続けるこの精神の強さは、一体どうして可能なのだろう?

置かれた状況を恨み、周囲に当り散らすこともできない不自由さを呪うではなく、思い出や想像の世界を飛翔しようとする精神の自由さは?

平凡な日常を知らせる友人の手紙には、「こうした人生の一断片、幸福の息吹にこそ、何より僕は心を動かされる」と言い、「すべての手紙を宝物のように大切にしている」と、友の幸せを自分の生きる力にしている。不幸な立場を悔やみ、他人を羨む、妬む、という凡人の世界を突き抜けてしまったからだろうか?

でも、家族に対する深い愛情と哀しみは率直で、著者の「胸がしめつけられる」想いが伝わってくる。
No85 横田恵子編著 『解放のソーシャルワーク』 世界思想社 2007年

キーワード:解放、ソーシャルワーク、クリティカル・ソーシャルワーク

解放=emancipation。No84で紹介したアメリカの児童保護ソーシャルワークの文献では、このemancipationを「自立」と訳していた。グループホームや里親の下で育った子どもが18歳になり、児童保護システムの下から「解放」され、ひとり立ちすることだ。要保護の子どもたちにとって、児童保護システムは管理支配する「抑圧的」な側面をもっているから、そのシステムから「自立」することは「解放」に違いない。

では、「解放のソーシャルワーク」とは?何からの解放?
編者によると「通常のソーシャルワーク実践から自由になる」、「通常、繰り返されている援助概念や方法のあれこれでいいのか?」ということらしい。つまり、これがソーシャルワーク、というこれまでの「思い込み」を捨てるだけでなく、それを批判的にとらえなさい、ということ。

それでは、どのような視点から批判的にとらえよ、というのだろうか?

編者の横田さんは、1章「ソーシャルワーク実践家における援助技術教育――普遍的モデルの多元的再検討」において、「ソーシャルワーク実践者養成教育を、激変する現代社会におけるあらたな公共性の担い手を養成する教育と位置づけ」、特に、「エンパワメント概念の理解を伴うアクション志向の実践的経験」させることを重視している。つまり、バルネラブルな人々のエンパワメントを支援していく、開発学でいうところの人権アプローチの視点から批判的に、である。

2章「解放のソーシャルワーク」で木原活信さんは、「人間の解放」という視点に立つこと、すなわち、「利用者を取り巻く状況や社会環境が利用者自身を不当に抑圧していると同定して、その状況から解放するということ」に焦点を当てることだと言っている。その「解放」の視点として採用できるのが、「古い物語」「ドミナントストーリー」からの解放をもたらす、ナラテイブの「ミクロな援助介入」モデル。

ただし、それだけでなく、「貧しさの視点」、「弱さの視点」つまり、「専門家の視点ではなく当事者の視点」に立って(=「無知の立場に立つ」)、「専門職、介護保険、地域福祉、尊厳と自立、社会適応などをあらためて再解釈し、あたらしい解放の物語を構築すること」も課題だとしている。

オーストラリアのクリティカル・ソーシャルワーク理論の概説ともいえる4章では、クリティカル・ソーシャルワークをつぎのように定義(?)している。「マルクス主義、批判理論、フェミニズム、ラデイカルヒューマニズム、解放の神学、ポストモダニズム、ポストコロニアリズム、緑の政治理論、反グローバリゼーション理論といった幅広い理論的枠組から成り立つ」もの、「社会正義、人権、社会変革」といった概念を共有している。

メインストリームの言説にチャレンジする言説にもとづけば、すべてクリティカルな視点をもったソーシャルワークと言えるということ?
ここまでのクリティカルな視点は、特に目新しいものではない。

5章「クリティカル・ソーシャルワーク試論」では、加茂陽さんが、わが国のソーシャルワーク研究者やソーシャルワーカーの批判的視点の欠如を批判したうえで、「細部の変革にちからが宿るという視点」からクリティカル・ソーシャルワークを論じている。

従来のソーシャルワークであれば(?)、「洗練された命題的な現実の説明法、規範論、自己論を保持するソーシャルワーカーによって(クライエントの訴えが)再構成され、さらに、その結果原因を除去するべく解決行動が示される。多くの場合そこでは表層的には合意が成立する。問題定義と解決法が特殊な前提の上に構成されたものにすぎず実在しないなら、解決行為が試みられるほど、クライエントの苦悩は増幅し、常同的解決行為が試みられる悪循環が作り出される」

ワーカーは、「洗練された知識体系」をもつ立場から「解決策の一致点」にたどり着こうとするが、それ自体が「ひとつの文脈依存的な特殊な現実構成法にしかすぎない」のであるから、「一致を前提とするこの援助場面においては、解決行為は一種のソーシャルワーカーの状況操作であり、その操作の正当性の根拠が不在である限り、事態は悪化し、矛盾増幅という悪循環が展開することになる」

この悪循環のメカニズムを変容させる戦略は、「理性的議論によって評定と変容に関しての合意を求める方法論ではなく、反対の差異化」であって、「クライエントのパターン化された内閉的な解決行為に亀裂を入れるノイズの投入」である。すなわち、「新たに『として』現実を生成させる」ことである。

ウーム。ソーシャルワークの支援論モデルは、もうすこしわかりやすいものがいい、、、、。
加茂さん編の『被虐待児への支援論を学ぶ人のために』を読めば、具体的にわかるらしい。

それにしても、なぜ、多くの場合の合意が表層的で、問題定義と解決法が実在しない、と仮定するのだろう?そういう場合が少なからずあることは認めるけれども、クライエントも納得して合意し、解決行為を試みることで苦悩の減少が少なからず見られるからこそ、それらの言説の制度化が促進されたはず。
制度化され権威をもった言説とそれを学習した援助者は、例外をみとめず、「表層的合意」づくりを強制的に行ってしまう運命にあるからか。 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。