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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

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No31 新田孝彦 「総論 科学技術倫理とは何か」(新田孝彦・蔵田伸雄・石原孝二 編『科学技術倫理を学ぶ人のために』 世界思想社 2005年

キーワード:技術、科学技術、倫理、

社会福祉援助技術、これは、ソーシャルワークを日本語訳にしたものだ。この訳は適切ではないとか、社会福祉援助技術とソーシャルワークとは同じではないとか、いまだにいろいろ議論はある。それは置くとして、社会的技術に関する本や企業倫理に関する本がさかんに刊行されている。専門的技術は倫理を伴わなければならない。これはどのような領域についても言える。

新田先生は、物をつくる動物であるとともに、共同体をなす動物でもある人間にとって、「技術」と「倫理」のどちらが欠けても、人間は人間たりえない、とギリシャ神話(プロメテウス神話)にもとづいて断言する。

技術を用いてなにかを製作する、なにかを成し遂げるのは、ある目的、すなわち、人間の善にかかわる目的のためであって、技術と産物はけっしてそれ自体が目的なのではない。人間の善にかかわる理性的な知である「賢慮」と技術が目指す究極の目的は「よい行為」なのであって、「目的が正しく立てられること」と「その目的にいたる手段を発見すること」が、「よい行為」を成立させるための条件である。

この意味で、技術は目的のよさにかかわる「賢慮」に従属する。しかし他方で、達成できる目的の種類や内容は、技術的な制約のもとにある。さらに、目的は手段を正当化できず、手段は目的のよさとは別に、それ自体の倫理性を問われなければならない。

新田先生は、こう述べたうえで、第二のプロメテウス時代である現代の科学技術のもつ、「危険性」と「魔性」に対する「安全の確保」と、使用するか否か、どのように使用するかを選択するという「自律的選択の確保」という倫理的課題に、技術者がどう対応すべきかを述べている。

そして、何が「よい行為」なのかを決める価値をめぐって、「最大多数の最大幸福」と「人間の尊厳」の対立があるが、上記2つの倫理課題を前提とすれば、個々の人間の尊厳を承認するという根源的倫理が重要と主張している。

では、「人間の尊厳」とはなにか、「人間らしく生きる」とはどのようなことなのか。「人間そのものが目的という技術的、倫理的原点に繰り返し立ち返るなかで、技術者は、技術の価値を捉え直さなければならない。これが新田先生のメッセージだ。

社会福祉援助技術やソーシャルワーク論において、技術(方法)と目的・価値・倫理との関係性が、また、技術そのものの価値がさほど論じられないのは、技術が技術として体系化されていないからか。ケアマネジメントという技術などは、目的・価値・倫理との関係性をもっと問うことがあってよいはずだ。

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No29 春日武彦 『顔面考』 紀伊国屋書店 1999年

キーワード:顔、表情、無表情


心理のカンセラーも福祉のソーシャルワーカーも、面接場面では、クライエント(相談者)の言葉によらないコミュニケーションに敏感であることが求められる。

言葉によらないコミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)のなかでも、とりわけ多くの情報をもたらすのが顔の表情である。

春日先生は、この顔について、多様な角度から考察している。ちょっと不可解でこちらを不安にさせるような顔の写真や漫画も載っている。

「健康な人間は、通常は多かれ少なかれ感情が顔に染み出る。」「そしてごく些細な表情の変化も、それが感情の状態を示す信号として他者に感知される。」表情は雄弁であるから、「たとえ無表情という形で超然たる立場を守ろうとしても、それがなぞめいた情報として作用してしまう」

「無表情は一種の緊張した表情を持続し」、「緊張した表情は緊張した精神状態を示唆する。」この精神状態を起こさせた理由や状況が判然としないとき、われわれは不安感を覚える。

こんなとき考えられるのは、①相手は私を嫌ってコミュニケーションを拒否している、②相手にとって私は存在していないも同然で、心は現実から断ち切られている、の2つ。

②の場合、「顔の裏側では差し迫った感情が昂ぶっているにもかかわらず、顔は、その内面と社会を隔てる壁としてしか作用していない。」統合失調症の人と相対したときに感じられる「一種の名状しがたい、取り付く島のない病的雰囲気としてのプレコクス感はこうした顔の表情である。」

無表情というのは感情が失われているのではなく、感情の昂ぶりがあるにもかかわらず、それを外界に対して適切に表現できないでいるときの表情なのだ。なんと苦しいことなのだろう。




No28  才村純 『子ども虐待ソーシャルワーク ーー制度と実践への考察――』 2005年 
有斐閣

キーワード:子ども虐待、ソーシャルワーク


子ども虐待ソーシャルワークの目的は、通常のソーシャルワークと同じで「クライエントが環境によりよく適応していくことを援助すること」だ。しかし、虐待ソーシャルワークの場合、援助関係を形成するプロセスと手法が通常のソーシャルワークの場合と異なる、と著者は言う。

通常のソーシャルワークの場合(ここでは、生活課題の解決を希望してクライエントが自発的に相談に来た場合を言っている)、バイステックの7原則(クライエントの受容、非審判的態度、クライエントの自己決定など)にもとづいて、ソーシャルワーカーはクライエントとの援助関係を形成していく。

だが、子ども虐待の場合、親であるクライエントの怒りや恨み、反応などを受容し、クライエントが自己決定に至るのを待っている時間的な余裕はない。子どもの権利を最優先して、子どもを守らなければならない。

児童相談所での体験が長い津崎哲郎氏によれば、受容や共感が有害になる場合さえある。 ソーシャルワーカーは、虐待する親に妥協しない毅然たる対応を行い、対決する。ギリギリの攻防を経てはじめて、クライエントは態度を変えてくる。急に冷静になったり、気弱な態度を見せたりする。このときに、受容的な対応をとると、クライエントとの関係が変わり、話ができるようになったり、態度が豹変して依存的になったりする。

こうしたことが現実には少なくない。津崎氏は、この毅然たる態度による応対をハードアプローチ、受容的対応をソフトアプローチと呼んでいる。

著者は、乳幼児期に虐待を受けた親のなかには、自我の正常な発達が阻害されているものもおり、支配的・非支配的の範疇でしか対人関係をとらえることができない者がいる、だから、受容的な援助によってクライエントの自己洞察と自己決定を促すという、あるていどクライエントに自我が形成されていることを前提としたソフトアプローチではうまくいかないのではないか、と言う。

ハードアプローチによって、従来の行動パターンが通用しないことを体感して途方にくれたときに、ソフトアプローチで対応する、すると、クライエントは、退行して極めて強い依存性を表出するのではないか。著者はこう解釈し、この関係性を使って、親の自我が発達するよう援助していくというハードアプローチとソフトアプローチを統合した援助が、虐待ソーシャルワークとして必要であると主張している。

この主張は、信田さよ子さんの家庭内暴力に対する援助論を思い出させる。もっとも、虐待する親の虐待行動の理由・背景は1種類ではないはずだ。他の種類についても、解説を聞いてみたい。
No27 宮子あずさ 『気持ちのいい看護』 医学書院 2000年

キーワード:看護、ケア、傾聴

医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の1冊である。「ケアをひらく」とは、ひとことで言えないケアの世界の豊穣さをあれこれと表現することであるそうな。

本書の帯には、「夜勤明けの頭で考えた『アケのケア論』」とある。看護婦である宮子さんの直感、六感と深い考察にもとづく看護論、看護師論もまた、たしかにいろいろと考えさせるケア論だ。

「サービスの受け手と与え手のニーズはたいていの場合、相反するのが社会の常識。」それなのに、なぜ、「患者さんが喜んでくれる看護をすることが、自分たちにとってもいい看護」と言われ、看護婦自身も言い続けてきたのか。しかし、本当にそうなのか。

宮子さんは、表面的な和合をあえて乱してでも、看護する側とされる側がそれぞれの立場から、本当のことを言ったほうが「気持ちのいい看護」を探ることになると言い、「誤解をおそれず、看護する側の立場から、自分の思いを伝えたい」と、夜勤明けにキーボードを打ち続けた。 

たとえば、宮子さんは、患者さんの話をよく聞くことが苦手、つらい、と言う。看護婦、特に宮子さんのような精神科の看護婦は<傾聴>ができないといけない、と言われているにもかかわらず。話を聞くことより、話すことのほうが好き、ということもあるけれど(一般的に言って、みんなそうだと思います)、次のようなときが特に<傾聴>できないとのこと。

1つは、自分の価値観に照らしてあまりにもゆがんでいることを患者さんがいっているとき。他者への攻撃や悪意のある言葉など。もう1つは、聞いてもどうすることもできないのに、相手が答えを強く求めてくるとき。

こうしたときに<傾聴>がつらい。看護婦としての役割期待をこなせない、となると自責の念が強くなってしまいがちである。そのモードに入らないようにするために、宮子さんが体験的に得た対処方法は、前者については、「あくまでも私の考えですが」といって、自分の考えを伝え、後者については、答えをださなくてはとは思わず、でも、誠意ある態度で聞き流す、ということ。

これって、ソーシャルワークのコミュニケーションスキルとしてテキストに書かれているものだ。でも、宮子さんはなぜそれでいいのか、ということを、体験を踏まえて記述しているので、とても説得的。

No26 大日向雅美 『「子育て支援が親をダメにする」なんて言わせない』 岩波書店 2005年

キーワード:子育て支援

    本書は、母性や子育て研究の第一人者であり、大学教授である大日向さんが書いた、子育て広場<あい・ポート>施設長としての奮闘記。
Ⅰ部は、子育て支援策やその批判に対する大日向さんの主張、Ⅱ部が<あい・ポート>の実践記録である。

実践は、理論や理念どおりに進まない。対象者からも地域の関係者からも、さらには身内からも苦情や批判、不満が寄せられる。しかし、現実の前で揺れながらも「男も女も、仕事も家庭も」という理念の重要性を忘れず、理念を実現する方策をみなで考え、実施していく。しんどい現実を放棄せず、挑戦のイニシアテイブをとる大日向さんの、その粘り強さやしなやかさに感心。

今の母親の心情に寄り添うことと、女性の社会参画推進を信条にしている大日向さんの、支援者側への忠告の1つ;
子育て広場や支援センターをつくっても、母親を子ども扱いするようなプログラムや対応であるならば、子育て期の女性を「女・子ども」の世界に閉じ込め、視野を狭くさせてしまう。それは、支援とは違う。



No25 天野正子 『老いの近代』 岩波書店 1999年

キーワード:老い、老人

      本書の1章「老人の入る席・子どもの入る席」で、著者は、日本の近代化がもたらした「老い」についてこう言う。
近代化は、流動的なライフスタイルに適応できず、居場所を失っていく社会的「弱者」としての老人を生み出す一方で、ビジネスや政治などあらゆる領域で、社会的「強者」としての老人層を作り出し、長老支配の構造の基盤をつくっていった。言いかえれば、近代化は社会的業績ないし成功を基準に、「意義ある老い」と「意義のない老い」という、老いの差異化と序列化を持ち込む役割をもたらした。

老人福祉法の第1章総則第2条では、「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として敬愛され、かつ、健全で安らかな生活を保障されるものとする」という文章がある。実績を残し、「社会の進展に寄与してきた」「意義ある老い」を生きる人は敬愛され、生活を保障される価値がある、そうでなければ、、、と、この文章を解釈することも可能だ。

これに比べると、1991年に第46回国連総会で採択された「高齢者のための国連原則」は、高齢者は高齢者であることだけで(なんら条件をつけることなく)、「自立」と「参加」、「ケア」、「自己実現」、「尊厳」のための種々の機会や条件を有すべきである、としている。

たとえば、「高齢者は、所得の至急、家族と地域社会の支援および自助を通じて、十分な食料、水、住居、衣服、ヘルスケアを入手する機会を有すべきである。」老人福祉法の総則第2条は修正したほうがいい。

さほど多くの人のお葬式に参列したわけではないが、高齢者のお葬式に出るたびに、著者の言う老いの序列化を感じる。参列者を多く集め、弔辞が読まれ、過去の業績が報告される老人と、身内と数人の隣人だけでひっそり終わる老人と。過去に社会的基準による業績がなかった女性でも、配偶者にそれがあれば序列は高い。
近年、こうした社会的儀式としての葬式を生前から拒否する傾向が出てきたのは面白い。

つい60年前、多くの若者は無念のうちに死を遂げ、「老い」を迎えることはできなかった。いや現代でも「老い」を迎えることができるのは、世界でみればごくわずかにすぎない。しかし今、私たちは、「老い」の意味を探る。(本書第三部「老いのパーフォマンスーー一人ひとりの意味場――」)本書が描くさまざまな「老い」をみながら、さて、自分の親は、また、自分自身はどうやって「老い」を迎えるのか。
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