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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

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No24 三好春樹 「介護のもつ力」
 (三好春樹・芹沢俊介 『老人介護とエロス』 雲母書房 2003年)

キーワード:介護、高齢者

       ちょっと前に紹介した竹内孝仁先生と並んで、高齢者介護のカリスマである三好春樹さんのエッセイ。介護の現場における実践知をいろいろ教えてくれる。
 
自己決定という幻想;
三好さんは、「日本人の主体性というのは、相手との関係、やりとりのなかで発揮される」から、特別養護老人ホームに入所中の高齢者が、何かをするのを「いやだ」と言ったからといって、「ああそうですか」ですませてはいけない、と言う。「そうなんですか?」「こうしたらどうですか?」といったように、「相手を洞察して返していく」こと。そうすると、高齢者が身体で、言葉で反応を返してくる。三好さんによれば、こうした「主体と主体がクロスするところでしか介護は成り立たない。」

ケアにおけるこの関係は、認知症の高齢者だけでなく、知的な障害をもつ人との関係においても、また、クリアな高齢者との関係においても言えることだろう。介護というケアの関係は、介護を受ける者が介護する者とのコミュニケーションを通して、その主体性を表現できる関係であるべきなのだ。介護を受ける者は、ケアの関係がもつ権力構造によって、主体性の発揮を抑制されるおそれが強いのだから。

「当事者主権」を掲げる障害当事者の人たちは、こうした介護関係を介護の専門家の押し付けとして、うっとうしいものと感じるだろうか。彼らは、介護の用語ではなく、介助とかアシスタンスの言葉を用いる。こちらの用語は「手伝い」「補助」という意味合いをもっている。ケアを受ける人は自己決定の権利の行使者、という認識にもとづいた言葉の選択である。

三好さんは、「介護の介は、老人が主体になるための媒介になる、きっかけになるという意味の介」だと言う。老人が身体と生活における主体になれるよう、介在することが、介護なのだと。

「自分の身体の主体になる」「自分の生活の主体になる」思うように動かせない自分の身体を少しでも思うように動かすことができるように、あるいは、思うように伝わらない思いが少しでも伝わるように、介護者/介助者が支援すること。こちらの表現は、障害当事者の人たちにとってもうなづける主張ではないか。

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No23 上野千鶴子 『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』 平凡社 2002年

キーワード:家族、住宅、住空間、コミュニティ
      
社宅やアパート、マンション、分譲住宅というように、決められた空間に合わせて住むことを強いられてきた者として、部屋や家というのは、もともと「使い勝手が悪いもの」という思い込みとあきらめがあった。

だから、住空間が指し示す「規範」としての機能的ゾーニングと、変化しつつある家族の住空間の使い方とのあいだにはギャップがあるらしい、という問題関心には「ああそういう関心のもち方があるのか」とちょっと驚いた。家族の変化を追いかけて、こうした問題関心に行き着いたとのことだが、1980年代からの関心というから、さすがである。

福祉施設の居住空間について、利用者にとっての快適さを追求する視点から議論がなされるようになったのは、ユニットケアとかグループホームとか、つい最近のことだ。家族のための「ハコ」同様に、「容れられる者」にとっての「ハコ」の意味を、建築家だけでなく、援助職も利用者ももっと関心をもつべきだ。

さて、いろいろ面白い指摘はあったのだが、特に関心をもった「選択性のコミュニティ」と「開いた居住空間」という2点を取り上げよう。

まず1点目。子どもや高齢者などの依存的な他者をかかえたとき、人々は家族を必要とし、育児、介護の社会化という機能を組み込んだコモンの空間を必要とする。こうしたコモンの空間は、居住の近接が強要するような地縁によるコミュニティではなく、選択縁による選択性のあるコミュニティである。

確かに、これはよくわかる。隣近所の人にプライバシーを知られたくないのが一般的な心情だし、ちょっとした手助けを必要とする高齢者のなかにも、地域の民生委員や隣人の助けはいやと言う人も少なくない。だから関心や理念を共有する人々と、元気なうちからネットワークを作っておこう、理念を共有する人々に連絡をとって支援を受けよう、ということになるのだろう。だが、それはしんどい話だな、と思う。選択してネットワークを作ることのできる「強い」人ばかりではないのだから。

介護保険でサービスの使い勝手は格段によくなったけれども、家族なしで、介護保険や福祉のサービスだけで、要介護の高齢者が安心して地域で暮らせるわけではない。「弱い」人には、選択的コミュニティづくりを援助職が支援するにしても、空間(近接)が媒介するコミュニティも、「安心」と「安全」な暮らしの確保のために必要だと思う。理念や関心が媒介する選択的コミュニティとともに、空間が媒介する新しいコミュニティづくりを急ぐ必要がある。

2点目の「開いた居住空間」というのは、介護保険が介護の社会化を推し進め、家族を開いたのだから、建築家は、それに見合って開いた居住空間を建築してほしい、ということである。
プライバシーに敏感な団塊世代が満足できる開いた家は、今後、どのように設計されるのだろうか?

No22 平野隆之・佐藤真澄 「重症心身障害者の地域生活に関わる支援とその費用形成」
日本福祉大学社会福祉論集 第113号 2005年

キーワード:重症心身障害者、地域生活支援、サービス利用、費用形成

       本論は、「個別の重症心身障害者が地域生活を目指すことを支援する諸事業に、社会的にどれだけの費用がかかっているか」を明らかにすることを試みた論文である。

2000年の介護保険実施前には、個別の要介護高齢者の地域生活を支えるために提供しているサービスの総費用がどれくらいか、計算を試みた調査研究がいくつかあった。こうした研究は、1989年の高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(ゴールドプラン)による在宅サービス利用の増加がみられたからこそ実施可能であった。

本論も、今国会に提出された「障害者自立支援法案」を念頭に置き、保障の目安としての費用データを提供することを目論んでいる。しかし、重症心身障害者の地域生活支援の費用について実態調査に基づいて総合的に把握したものはこれまでになく、貴重な論文である。


調査結果によると、サービス利用の実態は重症心身障害の障害程度指標と必ずしも対応関係になかった。サービスコスト面は、平均で1ヶ月約35万円。高水準の40万円以上では、居宅系サービスと訪問系サービスを組み合わせて利用。低水準の20万円未満では、通所系サービスのみの利用が多い傾向がみられた。高水準の利用ケースでも、施設入所と比較すると、施設入所ケースのもっとも低水準の層と同等かそれ以下の水準であった(ただし、これは、母親を中心とした家族介護者の無償の労働が前提となっている)。

「サービスパッケージ」の分類は4つに分類されるが、この利用タイプは、低水準の利用から高水準の利用タイプへと変わっていく。と同時に、「日中活動」「日常生活行為」「家族からの自立」という形で、地域生活が高まっていく傾向がうかがえる。

低水準のサービス利用は、家族内での介護で完結している傾向が強く、サービスの利用をセルフマネジメントできず、「自らの利用経験を根拠に形作られる利用者の利用意識が反映」したサービスパッケージを作れない恐れが強い。

「自立支援法案」は、複数のサービス利用が必要な者に限定してサービス利用計画の作成(ケアマネジメント)を想定しているけれども、こうしたケースに対してこそ相談援助事業が必要ではないかと、著者たちは指摘している。まったくそうだと思う。

 
No21 竹内孝仁 『認知症のケアーー認知症を治す理論と実際――』 
年友企画 2005年

キーワード:認知症、ケア、

       いやあ、読んでよかった。従来の脳血管障害による痴呆とアルツハイマーによる痴呆の違いとか、認知症の人に対するケアについて多少は本を読んでいた。また、認知症の当事者が書いた『私は誰になっていくの』を読んだり、身近にいる認知症の人を見ていて、今までの知識ではよくわからんなあ、という思いが強くなっていたところだった。
       ケアマネジャーさんやケアワーカーさんたちに絶大の人気を誇る竹内先生のこの本で、納得できることが多かった。

       認知症は、身体的活動性、生理的ボケ、社会的関係という身体、精神、社会のそれぞれの要因が関係して生じる。認知症と正常の境はうっかりミスを自己修正できるかどうかである。認知症の人々の心理は混乱と不安,怯えと孤独感、怒りなど。閉じこもり予防こそが寝たきりと認知症予防であること、などなど。理論的説明が大変わかりやすい。

       ケアの専門家は当然のこと、認知症予備軍の高齢者も、認知症の人を家族にもつ人々も、こうした知識とケアの技術をできるだけ早期に学ぶことが必要だ。認知症はこわい病気ではないこと、適切に対処できる障害であることを早く学び、不幸な状況を少しでも減らしていきたい。
No20 上野千鶴子 『ケアの社会学――序章 ケアとは何かーー』
 クォータリー{あっと}1号 2005年

キーワード:ケア、フェミニスト、ケアワーク、ジェンダー、ケアへの人権アプローチ

       ケアは近年の社会現象である。「ケアが問題として登場し、社会的に配置され、新しい社会領域を切り開き、さらに代替的な社会的ビジョンを提示する可能性について論じる」という、上野千鶴子氏の『ケアの社会学』の連載が生協系の新雑誌で始まった。
     
  ケアとは何か。フェミニストであるデイリーはケアを、「依存的な存在である成人、または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことにかかわる行為と関係」と定義する。上野氏は、この定義を採用する。それは、この定義が、ケアの社会的かつ歴史的な文脈依存性を示すからである(それ以外にも5つの効果がある)。

ケアが「中産階級」の「既婚女性」の無償労働になったのは、近代家族成立以後のことであり、ケアには家事と同じく、ジェンダー、階級、人種が変数として色濃く刻印されている、と上野氏は言う。そう、ケアは、社会的、歴史的な文脈のなかで語られねばならないのである。

ケアの本質論や規範的アプローチは、脱ジェンダー性を帯びている。上野氏はそう言って、本質論としての「ケアとは何か」ではなく、「いかなる文脈のもとにおいて、ケアとは何であるのか?」「いかなる文脈のもとである行為はケアになるのか?」「いかなる文脈のもとで、ケアは労働になるのか?」を問う、と宣言する。

興味深いのは、ケアへの人権アプローチ。上野氏は、このアプローチにより、ケアを脱自然化し、それが社会的権利として立てられるべき構築物であることを明らかにすること、また、一定の社会的条件を明示することでケアの社会的再配置についてのビジョンを提示することが可能になるという。
ケアの権利を、(1)ケアする権利、(2)ケアされる権利、(3)ケアすることを強制されない権利、(4)ケアされることを強制されない権利、とすることによって、ケアについて歴史的、かつ、社会的文脈で総合的なケア論の体系化の可能性を示唆している。
ウーム、次号が待たれる。 
No19 ロレイン・レッキ/ジョン・ウインスレイド、小森康永他訳 『人生のリ・メンバリングーー死に行く人と遺される人との会話――』 金剛出版、2005年10月1日

キーワード:リメンバリング、スピリチュアリティ、ナラティブ、物語

      最近、福祉の領域でスピリチュアリティやナラティブといった用語を見聞きすることが多い。特に、死にゆく人や遺される人に対する援助において。

      私たちの言う言葉や私たちの語り方が現実を形作り、構成するという視点に立つ構成主義の考え方にもとづけば、死や悲嘆をどのような言葉でどのように語るかによって、私たちがそれをどのように経験するかが大きく異なってくる。
そうであるならば、死に行く人や遺される人を支援する者には、死を喪失や永遠の別れ、悲嘆、PTSD(心的外傷後ストレス障害)として語る言説から、死に行く人や遺される人を解放し、彼らが死によってもたらされた移行に折り合いをつけられるよう援助すること、また、彼らが好むような仕方で自分たちの経験を物語ることができるよう援助することが求められる。
その方法の1つがリメンバリングである。死に行く人は、彼の人生の糸が遺される人々の人生という織物のなかに織り込まれていく過程に、遺される人や周囲の人との「リメンバリングする会話」を通して参加する。死に行く人が憶えておいてもらいたいものを話し、何が思い出されるかについて語る会話に参加することで、死に行く人は元気づけられ、不安や恐れをもちながらも安堵を得ることができる。
愛する人の死後に遺された人が、死者の思い出を語るだけでなく、人生の新しい節目節目において死者の言葉を思い返したり、新たな課題に対処するための資源として死者の意見を思い出す。つまり、遺された者が、死者との対話を通して考え、意味を見出し、経験を形作ることであるもリメンバリングである。

私たち日本人の多くは、毎朝夕、仏壇を拝んだりお茶やお花を供えて死者と対話する。遺された者の人生のなかに死者を置き続けるということはごく自然に行われている。これをわざわざリメンバリングと名づけなくてもよいのでは?という感想をもつけれど、これは宗教的感覚、スピリチュアリティの違いゆえ?
     ただ、死に行く人と遺される人との「リメンバリングする会話」は、とても大切だと思う。「リメンバリングが必要だよ、こうしたらどう?」と言ってくれる支援者が側にいてくれること、これも重要だ。

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