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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

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No18 佐藤幹夫 『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」――』 洋泉社 2005年

キーワード:自閉症、発達障害

      2001年、浅草で若い女性が、レッサーパンダ帽をかぶった若い男に刺されて殺された。犯人の男はすぐに捕まり、裁判が始まる。男は、自閉症という発達障害をもっていた。
     本書は、障害があるゆえに、罪が軽減されるべきだという主張をしているものではない。裁判の過程で、弁護団や支援者による多大な努力にもかかわらず、この発達障害が検察や裁判官にまったく理解されなかったことについて、それでよいのかと問うている。
     何の罪もなく理不尽にも殺された女性、将来が楽しみな娘を一瞬にして殺された家族、男やその父親のために重篤な病気をもちながら働き、やはり若くして病死した男の妹。男の罪は決して消えはしない。だが、裁かれ方はこれでいいのか。事実関係をうまく語れず、人との関係をつくることがむずかしい障害をもつ男。障害を理解しないまま、かれらを刑に服させてしまうという現状が続くなら、こうした痛ましすぎる事件をもう一度作り出すことになりはしないか。
     これが佐藤氏の主張である。彼は、福祉と教育についても強く批判する。自閉症をもつ男とその家族が、ここに至るまで福祉と教育のいずれからも適切な支援を受け続けることができなかったこと、ここに至ってからも手を差し伸べられることがなかったこと、についてである。それは制度よりも実践者に向けられている。
     2004年の12月に、発達障害者支援法が公布された。発達障害とは、自閉症、アスペルガー症候群、その他広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、これに類する脳機能の障害があってその症状が通常低年齢において発言するもの、と定められている。この法律で定められた発達障害者支援センターは、どのように支援していくことになるのだろうか。
     長年、障害児の療育事業に携わってきたベテラン・ソーシャルワーカーさんの話によると、近年、療育センターで出会うのはほとんどが自閉症とその周辺領域の人たちだそうで、非常に増えているのだそうだ。
     発達障害に対する正しい理解の浸透は、おそらく容易なことではない。しかし、福祉と教育にかかわる者はもっと関心をもち、理解しなければならない。
     それにしても、被害者と加害者の双方の過酷な現実に向き合い、神経をすり減らしつつ原稿に向かった著者に脱帽する。
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No17 神野直彦・澤井安勇編著  『ソーシャルガバナンス ――新しい分権・市民社会の構図――』  東洋経済新報社  2004年

キーワード:ソーシャルガバナンス、分権、市民社会組織、市民活動団体、NPO、自治会、コミュニティ組織、

    最近、ソーシャルガバナンスとかソーシャルキャピタル(社会的資本)といった新しいカタカナ用語を見聞きする。ソーシャルガバナンスって一体何?

    「民間でできることは民間で!」と叫び続けた小泉自民党の圧倒的勝利によって、新自由主義の政策はますます進むと思われるが、ソーシャルガバナンス(以下、面倒なのでSGと略します)とは、神野先生の言葉を借りれば、新自由主義への対抗戦略である。「官から民へ」は、「官から私(市場)へ」ではなく、「官から公(市民)へ」であるべきで、「市場の失敗→福祉国家」、「政府の失敗→福祉国家のリストラクチュアリング:市場拡大」に代わって、「政府縮小→市民社会拡大」としていくのがSGである。
    すなわち、NGOやNPO、ボランタリー組織などの市民セクターが、政府機関の担っていた社会統治機能(パブリック・ガバナンス)を部分的に代替していくことを、SGは意味している。

    本書の章の多くは、サブタイトルに「新しい分権」とあるように、地域社会におけるガバナンス、すなわち、ローカルガバナンスを扱っている。そのため、NPOなどの自発的参加型の市民社会組織だけでなく、従来からある町内会・自治会といったコミュニティ組織(地域コミュニティ)も重要だとし、その「再生・創造」と、NPOなどとの有機的連携について述べている。
    では、その「再生・創造」と有機的連携はどのようにして可能なのか?これについてはやや抽象的という印象をもった。また、提示してある方法の実現性やその条件について触れて欲しいと思うところもある。もっとも、北九州市の市民福祉センターの事例紹介などを通して、少しは見えてくる。
     ソーシャルキャピタルについては、またいずれ。
No16 宮地尚子編 『トラウマとジェンダー: 臨床からの声』 金剛出版 2004年

キーワード:トラウマ、ジェンダー、PTSD

     トラウマとジェンダーという、きわめて今日的なキーワードをふたつ用いて、性暴力や中絶、非行・犯罪、DV、児童虐待などの臨床の現場から「見えなかったもの」「語られてこなかったこと」を明らかにし、既存の理論の再考を試みた本である。

      愛着理論やボンデイング理論を臨床現場から再考した、小児科医による「心的トラウマと子どもの臨床――母性というジェンダーの文脈――」(5章)など、興味深い考察がある。
宮地さんの1章「総論――トラウマとジェンダーはいかに結びついているか」はトラウマとジェンダーの関連をとてもわかりやすく解説しているが、印象に残ったのは、以下の文章。
      精神療法とは「象徴体系のこりをほぐす」こと。象徴体系とは、頭のなかにある認知や志向、行動のもとになっている心的図式、さまざまな価値観や思い込みによってつくられた網の目のことである。この網の目をほぐすこと。「べき思考」からの脱出、完全主義や白黒の二元的思考の回避、思い込みの見直し、と言い換えることもできる。
      宮地さんは、「なんのことはないリフレーミングである」とも言っている。クライエントも関係者も、象徴体系にとらわれていて、網の目に柔軟性やゆとりがない。これが正しい、こうすべきだ、などと思い込んでピンとはりつめた網の目に、少しゆるみがでるよう、異なる視点からの考察や評価ができるよう、「自己リフレーミング能力を高めていくこと」、その結果、「人間関係のこりがほぐれること」が、治療の最終的目標なのだ。「人間関係のこりをほぐす」、とてもわかりいい表現では?

      ジェンダーが作り出す象徴体系、トラウマが強化する象徴体系を解体してしまうのではなく、すこし揺さぶってこりをほぐしていくこと、リフレーミング(再構成)していくこと。宮地さんは、言葉によるカウンセリングだけでなく、身体を使ったワークや儀式も有効と言っている。こうしたことは、クライエントだけでなく、経験の蓄積や自信によって思い込みの体系を作りやすい実践家にも必要だ。
No15 木村敏「他者性のクオリア」 (木村『関係としての自己』 みすず書房 2005年

キーワード:他者性、自己、クオリア

    他者性とは、他人として知覚した人物について、それが自分とは別の独立した主体/主観であるという意味での経験を指すが、これは、されほど自明のことではないと著者は言う。他人の他者性のクオリアは、どのようにして認知されるのか?と著者は問う。(クオリアとは、辞書的定義でいえば、感覚に伴う独特な質感を表す性質?)
  
何もかもよく知っていると思っていた恋人が、あるとき私にはわかりえない世界をもっているのだと知ったときの感覚。電車で隣の席の人が肩にもたれかかってきたときに、イヤなやつと思ってもあと2駅で降りるからがまんして無視するといったときの感覚。
他者の他者性は、「こうした私的間主観性ないし自他の「あいだ」の共有(近さ)と互いの世界の異他性(遠さ)という、相互に独立した変数間の弁証法的関係を問う」という問題なのだ。
著者によれば、精神科の診療場面には、周囲の他人たちとのあいだで、遠さと近さとの弁証法をうまく解決できなかった患者さんたちがやってくる。「身近な他人とのあいだで遠過ぎもせず近過ぎもしない適当な距離感が保たれているときには、精神の障害はまず起こらない」

   離人症の患者さんは、特別な他者性を実感できない。特別な他者性とは、私の主観に働きかけ、主体的行動を触発するという仕方で共通の間主観的世界を開いているような、そのことを私が直接主観的に実感できるような特別な他者の感覚である。
他人を自分と接触する周囲の世界として、また、自分に対置する主体をもった他者として感じることがなければ、人が主観をもった主体としてあることはむずかしい。患者さんは、「紛れもない他人」の実感も「紛れもない自分」の実感も持てないのだ。

著者はヴァイゼッカーのアイデアを借りて言っている。人は他人とともに、個別的生命の根拠としての「生命それ自身」とのあいだに「根拠関係」を維持している。「根拠関係」の近さを基盤にし、当面の他人との出会いの場における対置として個別的な主体性が成立する。
他人の主体的他者性とは、生命的連帯感を基盤にした他人の異他世界の対置に他ならない。他人の他者性のクオリアとはそうしたことだ。
ヘントン・J.メルビルK.ウオレッシュ、小門裕幸監訳 『社会変革する地域市民―スチュワードシップとリージョナル・ガバナンスー』 第一法規 2004年

キーワード:コミュニティ、地域圏、市民革命家、スチュワードシップ、ネットワーク

  今は、地域福祉の時代と言われている。市民が自分の住む自治体の福祉政策の企画・計画過程に参加し、市民の立場から発言していくことも、自分の住む町をすべての人々が「安心して住み続けられるまち」にしていく地域活動に参加することも、地域福祉、だと思う。

昨年、明石市の望梅地区のゾーン協議会が取り組んでいる「地域劇」を知る機会があった。ここは、在宅介護支援センターが事務局となって、中学校区の範囲にある種々の地域集団や、専門組織、それに行政が参加し、介護問題を出発点に「安心できるまちづくり」に取り組んでいる。ゾーン協議会のメンバーを中心に住民を巻き込んで行う「地域劇」は、住民の地域意識、まちづくり意識を促進する機能を果たしている。そして、「地域ふくし広場」という、行政関係者を招いて住民の対話集会の開催にまで発展している。

本書は、こうしたまちづくりの話というよりも、もっと規模の大きな地域圏における問題解決を市民リーダーたちによる社会実験として例示し、その方法を説明したものである。脱工業化時代の複雑化した社会における地域のガバナンス(自治)は、行政でもなく市場でもなく、地域の市民革命家、つまり、スチュワードシップ(人々からゆだねられているものを責任をもって管理するという精神)をもった市民活動のリーダーたちによる、ネットワークによって行われる。

両者は規模も違うし、目的も異なる。だが、まち(地域)に住む者の一員として地域をよくしていきたいという当事者意識を住民(市民)がもつようにするために、住民が集まる「空間」をつくりだすこと、また、住民が地域の問題解決過程に参加していくために、異なる認識や意見をデイベート(討論)ではなくダイアローグ(対話)によって相互理解を進めていくことなど、共通点も見いだせる。

でも、日本では、どういう人たちがスチュワードシップをもった市民革命家として登場してくるのだろう?一定の地域圏で市民革命家たちがネットワークを組んでいる例が、福祉の領域にあるだろうか?それを想像するよりは、市民主体のNPOやボランティア団体が福祉のまちづくりを担っていくことを想像するほうが容易だ。もっとも、知らないだけかもしれない。

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