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No105  野口裕二編著 『ナラティブ・アプローチ』 勁草書房、2009年

キーワード:ナラティブ・アプローチ、ストーリー


野口さんの序章「ナラティブ・アプローチの展開」と、終章「ナラティブ・アプローチの展望」を読むと、ナラティブ・アプローチとは何か、ナラティブ・アプローチを使う意義、ナラティブアプローチの可能性といったものが、大変よくわかる。

ナラティブ・アプローチとは、「ナラティブという形式をてがかりになんらかの現実に接近していく方法、つまり、研究方法によって定義されるアプローチであって、ナラティブそれ自体を研究するものではない。」

また、ナラティブアプローチは、「実践という目的のためにも使う(ナラティブセラピーやNBM)が、研究のためにも使う」

研究における「分析手法」としては、「構造分析(ナラティブの形式的特徴を理解するうえで役立つ  概要、方向付け、行動、評価、解決、回帰など)」と「機能分析(ナラティブという形式がなんらかの現象に対してどのような機能を果たしているか)」とがある。上記のナラティブアプローチの定義をみればわかるように、後者にこそ意味がある。

「ナラティブのなかに本質が隠されていると見る本質主義」の立場に立てば、「ナラティブはなんらかの本質を示すデータとして扱われる。GTA(グラウンデッド・セオリー・アプローチ)はその洗練化されたものであり、インタビューでは片寄のないデータを取り出す工夫がなされる。」また、実践では、「クライエントの語りから真実をいかに聞きとるか」が目的となる。

他方、「現実をナラティブが構成するという構成主義」の立場に立てば、「ナラティブが結果としてどのような現実を構成しているかに着目する」ことになり、従来のアプローチとの違いはより明確である。「インタビュー事態がなんらかの現実を構成するプロセスとなる。」実践においては、「クライエントとセラピストが共同していかにして新しいナラティブを生み出せるか」が焦点になる。

6章「社会福祉領域におけるナラティブ論」を執筆した木原活信さんは、「従来の援助方法で無視されてきた当事者の声と現実が本当に語られてきたのか」として、「専門家が聞こうとしてこなかった物語」を物語る当事者運動としてのナラティブ運動に注目している。

野口さんは、木原さんらの指摘を踏まえて、「ナラティブアプローチは、いまだ語られていない物語というアイデアを軸に展開している」と述べたうえで、「いまだ語られていない場面」として、①語ってこなかった物語(告白、カミングアウトなど)、②語る機会がない、聞いてくれなかった物語(当事者主権の動き)、③自分でも意識しておらず、自分のなかで物語として成立していないものを物語り化していく場合、の3つがあるという。

「福祉や看護、心理などの臨床領域において、語りはこれまでも重視されてきた。」ただし、その多くは、①と②であり、その真実の語りを引き出すための「傾聴や受容、共感」などの工夫もなされてはきた。野口さんによれば、ナラティブ・アプローチがあらたに注目したのは③、つまり、「真実の語りではなく、新しい語り、別の語りが語られる可能性」なのだ。

「隠れた物語を発見するのではなく、新しい物語を生成することへと視野を広げる。」これがナラティブ・アプローチと従来のアプローチとの「決定的な違い」というのが野口さんの認識である。

そう、これがナラティブ・アプローチの意義なのだ。語られなかったストーリー、当事者が「真実」だとするストーリーを当事者が語り、専門家はその専門的理論的枠組みを、当事者を抑圧してきた社会はその「常識」を捨てて当事者のストーリーを「真実」として認めよ、というのであれば、専門家の理論や専門性を拘束/抑圧したり、世間一般の見方と対立してしまうだけに終わる危険性がある。

ナラティブアプローチは、隠されてきた「真実」を発見するというよりも、専門家と、また、社会とともに新しい物語を「生成」することに意義がある。

今、ミクロな実践に関心がある者としては、新しい物語の「生成」の方法としては、解決志向アプローチに関心がある。

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NO96  シュリル・クライマン/鎌田大資・寺岡伸悟訳 『感情とフィールドワーク』 
世界思想社 2005年
 
キーワード:感情  感情管理 インタビュー

高齢者ケアの領域では、ケアワークを感情労働としてとらえて、その特質を論じるという労働論や管理論が目に付く。看護の領域では、感情管理の技法まで踏み込んでいるものもあるようだ。だが、あってよさそうであるのに、ケアワークの領域に感情管理の技法まで踏み込んで論じたものは見かけない。社会学の研究者は、ケア労働には関心があっても、技法にまでは関心がないのだろう。

ソーシャルワークも感情労働そのものだ。バイステックの7原則のうちの「統御された情緒的関与」を出すまでもなく。しかし、感情労働として、また、その感情管理の技法を論じたものは、やはり、ないように思う。少なくとも、テキストでは。

生活保護ケースワーカーの「川柳事件」を扱った副田義也の「ケースワーカーの生態」(副田義也『福祉社会学宣言』岩波)は、川柳の内容分析を行って、ケースワーカーの仕事が何であるのか、見事に明らかにしている論文である。そのなかで、ケースワーカーの仕事の一部が感情労働であることを指摘している。

さて、本書は、質的調査を通してエスノグラフィを作成する社会学者が、調査者にとって質的調査は感情労働の側面をもつ、と指摘したものである。

調査者は調査における感情規則、たとえば、調査協力者を思いやる気持ちをもたなければならない、感情移入が必要である、ラポールを打ち立てるために相手を受け入れなければならない、相手に背を向ける気持ちをもってはいけない、、、、(規則というより思い込みと言ってよい)によって、ときに自分の否定的な感情に気付かないふりをしたり、むりやり抑えたり、別の感情に変えようとする(感情管理)。

だが、それは情報収集や分析に妨げになる。調査協力者や調査場所に対する自分の気持ちに気づき、その感じ方をもデータとして/手がかりとして使うこと。

ラポールができることは調査者にとっても気分がいいし、自分の有能さを確認することができる。しかし、そのことで失うこともある。ラポールができていることには、「社会学的理由」があるのだから、それを突き止めることが分析に役立つ。

クライマンはこのように指摘するとともに、わりきれない気分というもの、あるいは、感情の揺れ、は常にある。それを無視すべきではないとも言っている。

こうしたことは、面接をするソーシャルワーカーの仕事にもあてはまる。「困難事例」と実践者たちが呼ぶ事例がますます増えてくる現状にあっては、ソーシャルワーカーの感情労働、感情管理について考えることを急いだほうがよいのではないか。

ソーシャルワーカーの感情労働を指摘した論文は、上記したように社会学者のものである。社会福祉の研究者の間でソーシャルワーカーの感情労働、感情管理の研究がほとんど見られなかったのはなぜだろう?行政機関のソーシャルワーカーを初めとして、日本のソーシャルワーカーはニーズ確認とサービス結合が仕事の中心で、ラポール形成や面接技術、「統制された情緒的関与」は、ソーシャルワーカーたちにとって「むずかしい」大きな問題ではない、という思い込みがあったからだろうか。


No85 横田恵子編著 『解放のソーシャルワーク』 世界思想社 2007年

キーワード:解放、ソーシャルワーク、クリティカル・ソーシャルワーク

解放=emancipation。No84で紹介したアメリカの児童保護ソーシャルワークの文献では、このemancipationを「自立」と訳していた。グループホームや里親の下で育った子どもが18歳になり、児童保護システムの下から「解放」され、ひとり立ちすることだ。要保護の子どもたちにとって、児童保護システムは管理支配する「抑圧的」な側面をもっているから、そのシステムから「自立」することは「解放」に違いない。

では、「解放のソーシャルワーク」とは?何からの解放?
編者によると「通常のソーシャルワーク実践から自由になる」、「通常、繰り返されている援助概念や方法のあれこれでいいのか?」ということらしい。つまり、これがソーシャルワーク、というこれまでの「思い込み」を捨てるだけでなく、それを批判的にとらえなさい、ということ。

それでは、どのような視点から批判的にとらえよ、というのだろうか?

編者の横田さんは、1章「ソーシャルワーク実践家における援助技術教育――普遍的モデルの多元的再検討」において、「ソーシャルワーク実践者養成教育を、激変する現代社会におけるあらたな公共性の担い手を養成する教育と位置づけ」、特に、「エンパワメント概念の理解を伴うアクション志向の実践的経験」させることを重視している。つまり、バルネラブルな人々のエンパワメントを支援していく、開発学でいうところの人権アプローチの視点から批判的に、である。

2章「解放のソーシャルワーク」で木原活信さんは、「人間の解放」という視点に立つこと、すなわち、「利用者を取り巻く状況や社会環境が利用者自身を不当に抑圧していると同定して、その状況から解放するということ」に焦点を当てることだと言っている。その「解放」の視点として採用できるのが、「古い物語」「ドミナントストーリー」からの解放をもたらす、ナラテイブの「ミクロな援助介入」モデル。

ただし、それだけでなく、「貧しさの視点」、「弱さの視点」つまり、「専門家の視点ではなく当事者の視点」に立って(=「無知の立場に立つ」)、「専門職、介護保険、地域福祉、尊厳と自立、社会適応などをあらためて再解釈し、あたらしい解放の物語を構築すること」も課題だとしている。

オーストラリアのクリティカル・ソーシャルワーク理論の概説ともいえる4章では、クリティカル・ソーシャルワークをつぎのように定義(?)している。「マルクス主義、批判理論、フェミニズム、ラデイカルヒューマニズム、解放の神学、ポストモダニズム、ポストコロニアリズム、緑の政治理論、反グローバリゼーション理論といった幅広い理論的枠組から成り立つ」もの、「社会正義、人権、社会変革」といった概念を共有している。

メインストリームの言説にチャレンジする言説にもとづけば、すべてクリティカルな視点をもったソーシャルワークと言えるということ?
ここまでのクリティカルな視点は、特に目新しいものではない。

5章「クリティカル・ソーシャルワーク試論」では、加茂陽さんが、わが国のソーシャルワーク研究者やソーシャルワーカーの批判的視点の欠如を批判したうえで、「細部の変革にちからが宿るという視点」からクリティカル・ソーシャルワークを論じている。

従来のソーシャルワークであれば(?)、「洗練された命題的な現実の説明法、規範論、自己論を保持するソーシャルワーカーによって(クライエントの訴えが)再構成され、さらに、その結果原因を除去するべく解決行動が示される。多くの場合そこでは表層的には合意が成立する。問題定義と解決法が特殊な前提の上に構成されたものにすぎず実在しないなら、解決行為が試みられるほど、クライエントの苦悩は増幅し、常同的解決行為が試みられる悪循環が作り出される」

ワーカーは、「洗練された知識体系」をもつ立場から「解決策の一致点」にたどり着こうとするが、それ自体が「ひとつの文脈依存的な特殊な現実構成法にしかすぎない」のであるから、「一致を前提とするこの援助場面においては、解決行為は一種のソーシャルワーカーの状況操作であり、その操作の正当性の根拠が不在である限り、事態は悪化し、矛盾増幅という悪循環が展開することになる」

この悪循環のメカニズムを変容させる戦略は、「理性的議論によって評定と変容に関しての合意を求める方法論ではなく、反対の差異化」であって、「クライエントのパターン化された内閉的な解決行為に亀裂を入れるノイズの投入」である。すなわち、「新たに『として』現実を生成させる」ことである。

ウーム。ソーシャルワークの支援論モデルは、もうすこしわかりやすいものがいい、、、、。
加茂さん編の『被虐待児への支援論を学ぶ人のために』を読めば、具体的にわかるらしい。

それにしても、なぜ、多くの場合の合意が表層的で、問題定義と解決法が実在しない、と仮定するのだろう?そういう場合が少なからずあることは認めるけれども、クライエントも納得して合意し、解決行為を試みることで苦悩の減少が少なからず見られるからこそ、それらの言説の制度化が促進されたはず。
制度化され権威をもった言説とそれを学習した援助者は、例外をみとめず、「表層的合意」づくりを強制的に行ってしまう運命にあるからか。 

No55  好井浩明 編著 『繋がりと排除の社会学』 明石書店 2005年

キーワード:日常的排除、繋がり、差別、リアイリティ齟齬

社会福祉で「排除」という用語を聞くと、「社会的排除(ソーシャルイクスクルージョン)」、「貧困」「アンダークラス」といった用語をすぐ思い出す。本書は、そうした社会構造的問題としての排除ではなく、日常生活において私たちが普通に行っている「いま、ここ」で生じている「自明なもの」としての排除を取り上げている。

興味深いタイトルの論考が7つ納められている。ソーシャルワークとの関連で関心を引いたものに、西倉実季「『クレイム申し立て』としてのインタビュー:顔にあざのある女性の『問題経験』をめぐる語りから」と、石川良子「『ひきこもり』に関わる人々が“現場”に居続けるための実践」があった。

この2つは、好井さんの言葉を借りると、「日常生活における排除の様相」を明らかにしたというより、「排除の様相を読み解こうとしている術のなかに、そうした術を意味あるものとして使用している実践のなかにある排除の様相」を論じている。

西倉さんの論文では、「顔にあざのある」当事者にそのことの意味を尋ね理解しようとしたインタビューアー自身が、明確に意識してはいないものの、「顔にあざのある」ことについての解釈、思い込みをもっており、それが、インタビューイー、つまり、当事者にとっての意味、当事者が語っているリアリティを排除してしまうプロセスを記述している。そのリアリティ排除を敏感に感じたインタビューイーが、反撃すべく発言した内容が、このプロセスの存在をインタビューイーである著者に気づかせている。

ソーシャルワーク論において、近年、ナラティブアプローチ(物語アプローチ)の人気が高い。ソーシャルワーカーら援助職は、一定の知識と体験にもとづいて問題・ニーズを解釈する。しかし、その「専門知」が、クライエント、当事者のリアリティを抑圧し、さらにはデイスエンパワメントしてきたのだから、その「専門知」をカッコに入れて、当事者の語りを聞き、当事者のリアリティを理解するところから始めよう、、、、。

ナラティブアプローチをこの程度の理解で使うのなら、やはり、その面接過程はクライエントのリアリティ排除に陥る危険性があるのではないか。ソーシャルワーカーが面接する多くのクライエントは、サービス利用希望者、あるいは、サービス利用者であるから、反撃はむずかしい。

石川さんの論文からは、援助職は、クライエントだけでなくボランティアの感じる脆弱性にも、ときに思いを至らせ、謙虚さを取り戻す必要のあることを感じた。

No51 B.H.スタム、小西聖子他訳『二次的外傷性ストレスーー臨床家・ 研究者・教育者のためのセルフケアの問題』誠信書房、2003年


キーワード:二次的外傷性ストレス(STSD)、共感疲労、代理トラウマ、バーンアウト、逆転移、セルフケア


二次的外傷性ストレス、共感疲労、代理トラウマなど、いずれもトラウマを負った人々の回復を援助する過程で、セラピストやワーカーらの援助者が、相手の外傷性の体験にさらされた結果として経験する苦痛を表わす用語である。バーンアウトとも関連する用語である。

訳者の小西さんによると、PTSD概念を拡張的に捉え、それに対応した1つの精神障害として代理トラウマや二次的外傷性ストレスを捉えるという視点は近年弱まり、ケア提供者がケアを行うことによって生じる不可避のストレス反応を心理反応として扱っていくという視点になってきているそうである。

いずれにしても、これを放置しておけば、トラウマを負った人が援助者のケアに回るという「二重関係」になり、倫理違反であること、また、さまざま形でトラウマを負ったクライエントに悪影響を及ぼす(その意味でも倫理違反)ので、これを予防したり、緩和措置をとる必要があることを、いろいろな人が本書で論じている。

トラウマセラピーに携わる臨床心理士や精神科医には、すでに馴染み深い事象であり、対策は取られているのだろうが、福祉領域ではまださほど認知されていないのではないか。児童虐待や高齢者虐待などへの対応において、ソーシャルワーカーやケアマネジャーらがトラウマサバイバーと出会うことはまれではない。福祉領域の援助職がかれらの回復過程を直接援助することはあまりないと思われるが、STSD、共感疲労、あるいは、ケア提供による不可避のストレス反応が自然な現象として生じることを認識しておいてよいだろう。

本書最後の論文では、STSDへの対策を行うにあたって、それを導入することが政策的、運営管理的にどのように得策であるか、ということをいくつかの点について検討している。新しいプログラムの導入や、その効果評価を実施する際の、プログラム評価方法として参考になる。
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