FC2ブログ

Book+

福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |
No93  斎藤環 「サブカルチャーとともに大人になること」
(苅谷剛彦編著 『いまこの国で大人になること』 紀伊国屋書店)

キーワード:社会的ひきこもり、成熟

摂食障害の娘や不登校からひきこもりになった息子は、機能不全家族のIP(Identified Patient)である、だからアディクション・アプローチと同様のアプローチで、その親たちにカウンセリングを行う、という実践を10年くらい前に体験したことがある。

斎藤環さんの『社会的ひきこもり』では、まだ、機能不全の家族の問題としてとらえる見方が多少残っていたように思う。だが、「サブカルチャーとともに大人になること」では、完全に成熟問題としてとらえられているのではないか。

斎藤環さんによれば、近代化は子どもを労働から解放し、モラトリアムを長期化した。だから、当然、成熟度は低下していく。経済の豊かさと地縁・血縁の希薄化は、個人が何かを犠牲にしてまで「関係」を持続する意義を失わせ、アイデンティティ(=自己定位をするナビゲート感覚)を支える価値観を相対化・不安定化する。だから、アイデンティティ拡散は必然ということになる。

成熟は絶対的な価値ではなくなったのだ。それは、「登校拒否」が「不登校」となって、「拒否という問題状況」から「状態としての一般化」となったことに象徴されている。

かつては、人がつながりあうために、社会と成熟が必要であった。だが今は、ケータイやネットが媒介する。そのケータイやネットに参加するには、「未熟」でなくてはならない。

では、斎藤さんは、成熟拒否は成立するかというと、そうではないと言う。かつての全人的な性格に至るための成熟はもはや不可能だが、ケータイやネットによるつながり力を不当に未熟呼ばわりせず、成熟の意味内容の変容ととらえるべきだと主張する。

それは、万能感を失う=分を知ること=成熟、ではなく、自由になること=成熟、言語で自由に語る人間になること、だと言う。

それでは、失敗恐怖の「ひきこもり」の若者たちが、ケータイであれネットであれ、「自由に語る」ことができるようになれば、それがかれらの成熟なのか。「自由に語る」には、うなづいてくれる聴き手が必要ではないのか。

いずれにしても、成熟の意味が変容しつつあるらしい。従来の全人的な人間、内省ができ自己統制できる人間になることが成熟とは限らない、というのなら、今やソーシャルワークという社会的援助活動の指向する人間像も点検しなければならないのだろうか。それとも、国家が権威づけするソーシャルワーク実践はあくまでも1つの人間像を指向せざるを得ないのか。


スポンサーサイト
No.68 浦賀べてるの家 『べてるの家の「当事者研究」』医学書院、
2005年

キーワード:当事者、当事者研究、統合失調症

以前出版された『べてるの家の「非」援助論:そのままでいいと思えるための25章』を知ったとき、「『非』援助論」、という言葉に刺激を受けたが、本書の「当事者研究」もまた魅力的だ。

ソーシャルワーカーの向谷地さんの文章によると、「当事者研究」は、「問う」ことを通して、「自分の苦労の主人公になる」という体験であって、「幻覚や妄想などのさまざまな不快な症状に隷属し翻弄されていた状況に、自分という人間の生きる足場を築き、生きる主体性を取り戻す作業」ということである。

当事者による当事者のための当事者についての研究。

本書に文章を寄せた、べてるのメンバーの多くが、向谷地さんに「当事者研究」をしてみないか?と言われて、なんだか面白そう、と思ったと書いている。

楽しんでやれる「主体性を取り戻す作業」の新しい方法の発見。ほぼ30年に渡るべてるの歴史のなかで、熟成されてきたものなのだろうが、これはすごいことではないか。

向谷地さんによれば、「当事者研究」にかんする「共通のエッセンス」は、「<問題>と人とを切り離す」、「自己病名をつける」、「苦労のパターン・プロセス・構造の解明」、「自分の助け方や守り方の具体的方法を考え、場面をつくって練習」、「結果の検証」である。

これを自分自身で行うのだが、仲間のグループで、そして専門職も共に行う。だから、この作業は、「人とのつながりの回復と表裏一体のプロセス」なのである。

このエッセンスは、ナラテイブアプローチ、解決志向アプローチ、SST(ソーシャルスキルトレーニング)のエッセンスでもある

いろいろな「当事者研究」が、「サバイバル系」「探求系」「つながり系」「爆発系」と分類されて報告されているが、研究の質と報告の質について、もっとも面白かったのは、渡辺瑞穂さんの「摂食障害の研究:いかにそのスキルを手に入れたか」だった。

虐待や機能不全家族に育った子どもたちが、渡辺さんを初めとする「サバイバル系」の当事者のように、「当事者研究」をする機会と仲間といい支援者に恵まれることを、改めて強く願う。
No.65  越智元篤 『精神科看護師、謀反:極私的「革命」レポート』 文芸社 2006年 

キーワード:精神科、看護師、精神科看護、教育指導


このブログでコメントをくださった方の本である。精神科看護師として日々考えている看護論をブログでつづったものを本にした、と「まえがき」にある。

精神科看護の現場で起きていることをきっかけに、越智さんが考えた内容は、精神科病院や一般病院に限らず、官庁や企業、学校などに所属する人でも「そうそう」と思ってしまう、「管理職論」、「教育指導論」、「人事管理論」、「組織運営論」、「カンファランス論」などであり、カウンセリングやソーシャルワークにもあてはまる「傾聴論」などの「看護論」である。

たとえば、「職場で指導するときに、指導する相手に『なぜわかってくれないのか』と思ったことはないだろうか。そのとき、たいていの人が思うのは、相手の理解力を基準にして考えてしまうということである。(中略)(ある上司は、)『なぜ意見を言わないのだ』『なぜ指導事項が守れないのだ』と身近な部下に、積極性に欠ける部下のことを聞いたり愚痴ったりする。これは、メタ認知能力というものを意識していえるとは思えない行動である。己の指導方法と相手のレデイネスとの相互の関係を考えたことがないのだろう。」

ビジネス書にもこうした指摘は書いてあるのかもしれない。だが、実践現場の話しを踏まえて書かれていると、イメージがわき、考察に説得力がある。医療や看護、福祉、教育の実践現場では、耳の痛い人、逆に、拍手喝采する人、ともに少なからずいると思われる。

魅力的なのが、二段構えの情報戦略である。越智さんは、「情報提供については、まず頭のなかで考える。一度どうするか判断する。これが第一段階の思考。ここまでは、人間誰でもがたどる思考である。このときに出た判断結果を今度は逆に否定してみることがポイントである、と私は思う。これが第二段階の思考である。第二段階の思考を深めることで思考が柔軟になり、さらにいろいろな方法へと思考が広がるのである。」と書く。

看護現場で起きていること、体験したことが、この二段構えの考察によって、構造的に解明され、つぎの考察につながっていく。考察の内容はさることながら、この過程が面白い。

「まえがき」に、「現在28歳」、「精神科病院に勤めて10年」とある。「まえがき」に記載がなかったら、著者をもう少し年上の30代か40代の人、と思ったかもしれない。この後、どんな本を出していくのか。
越智さん、楽しみにしています。
No16 宮地尚子編 『トラウマとジェンダー: 臨床からの声』 金剛出版 2004年

キーワード:トラウマ、ジェンダー、PTSD

     トラウマとジェンダーという、きわめて今日的なキーワードをふたつ用いて、性暴力や中絶、非行・犯罪、DV、児童虐待などの臨床の現場から「見えなかったもの」「語られてこなかったこと」を明らかにし、既存の理論の再考を試みた本である。

      愛着理論やボンデイング理論を臨床現場から再考した、小児科医による「心的トラウマと子どもの臨床――母性というジェンダーの文脈――」(5章)など、興味深い考察がある。
宮地さんの1章「総論――トラウマとジェンダーはいかに結びついているか」はトラウマとジェンダーの関連をとてもわかりやすく解説しているが、印象に残ったのは、以下の文章。
      精神療法とは「象徴体系のこりをほぐす」こと。象徴体系とは、頭のなかにある認知や志向、行動のもとになっている心的図式、さまざまな価値観や思い込みによってつくられた網の目のことである。この網の目をほぐすこと。「べき思考」からの脱出、完全主義や白黒の二元的思考の回避、思い込みの見直し、と言い換えることもできる。
      宮地さんは、「なんのことはないリフレーミングである」とも言っている。クライエントも関係者も、象徴体系にとらわれていて、網の目に柔軟性やゆとりがない。これが正しい、こうすべきだ、などと思い込んでピンとはりつめた網の目に、少しゆるみがでるよう、異なる視点からの考察や評価ができるよう、「自己リフレーミング能力を高めていくこと」、その結果、「人間関係のこりがほぐれること」が、治療の最終的目標なのだ。「人間関係のこりをほぐす」、とてもわかりいい表現では?

      ジェンダーが作り出す象徴体系、トラウマが強化する象徴体系を解体してしまうのではなく、すこし揺さぶってこりをほぐしていくこと、リフレーミング(再構成)していくこと。宮地さんは、言葉によるカウンセリングだけでなく、身体を使ったワークや儀式も有効と言っている。こうしたことは、クライエントだけでなく、経験の蓄積や自信によって思い込みの体系を作りやすい実践家にも必要だ。
No15 木村敏「他者性のクオリア」 (木村『関係としての自己』 みすず書房 2005年

キーワード:他者性、自己、クオリア

    他者性とは、他人として知覚した人物について、それが自分とは別の独立した主体/主観であるという意味での経験を指すが、これは、されほど自明のことではないと著者は言う。他人の他者性のクオリアは、どのようにして認知されるのか?と著者は問う。(クオリアとは、辞書的定義でいえば、感覚に伴う独特な質感を表す性質?)
  
何もかもよく知っていると思っていた恋人が、あるとき私にはわかりえない世界をもっているのだと知ったときの感覚。電車で隣の席の人が肩にもたれかかってきたときに、イヤなやつと思ってもあと2駅で降りるからがまんして無視するといったときの感覚。
他者の他者性は、「こうした私的間主観性ないし自他の「あいだ」の共有(近さ)と互いの世界の異他性(遠さ)という、相互に独立した変数間の弁証法的関係を問う」という問題なのだ。
著者によれば、精神科の診療場面には、周囲の他人たちとのあいだで、遠さと近さとの弁証法をうまく解決できなかった患者さんたちがやってくる。「身近な他人とのあいだで遠過ぎもせず近過ぎもしない適当な距離感が保たれているときには、精神の障害はまず起こらない」

   離人症の患者さんは、特別な他者性を実感できない。特別な他者性とは、私の主観に働きかけ、主体的行動を触発するという仕方で共通の間主観的世界を開いているような、そのことを私が直接主観的に実感できるような特別な他者の感覚である。
他人を自分と接触する周囲の世界として、また、自分に対置する主体をもった他者として感じることがなければ、人が主観をもった主体としてあることはむずかしい。患者さんは、「紛れもない他人」の実感も「紛れもない自分」の実感も持てないのだ。

著者はヴァイゼッカーのアイデアを借りて言っている。人は他人とともに、個別的生命の根拠としての「生命それ自身」とのあいだに「根拠関係」を維持している。「根拠関係」の近さを基盤にし、当面の他人との出会いの場における対置として個別的な主体性が成立する。
他人の主体的他者性とは、生命的連帯感を基盤にした他人の異他世界の対置に他ならない。他人の他者性のクオリアとはそうしたことだ。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。