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No104  秋元美世『社会福祉の利用者と人権――利用関係の多様化と権利保障――』有斐閣 2010 

キーワード:利用者、人権、権利保障

介護保険と社会福祉の「基礎構造改革」によって、サービス利用は基本的に措置から契約に変わった。サービスの受給者もサービスの利用者へ転換した。

「市場化、契約化の中で想定されている利用者像は、自己利益の追求という特性を合わせもった賢い消費者」である。と同時に、消費者は「利用者としての主体性を発揮」して、契約手続きや苦情処理制度」を活用することを求められている。

また、「自立・自助を求められる(強制される)利用者」も、「利己主義的な行動様式を踏まえながらプログラムへの参加を促す手立てが講じられている」とともに、「利用者の行為主体性をどのように発揮させることができるか」が問題となっている。

さらに、保護が必要な「バルネラブルな利用者」についても、保護だけでなく「その行為主体性(エージェンシー)をいかに尊重していくかが重要な論点」になっている。

秋元さんは、このように利用者像の多様化について述べたうえで、「消費者としての利用者」像を前提とした契約化では対応しきれない問題の存在や、「保護を必要とする利用者」に対する「支援された決定」モデル、「自立を求められる(強いられる)利用者」に対する自立支援プログラムの正当性とその問題点などを論じている。

利用者像の多様化にもとづいて、必要性の充足と自律/自由という社会的人権を記述するならば、「必要性の充足」については、「契約化が権利性の明確化に大きく寄与することになったといえる」。だが、「賢い利用者」像では個別性問題に対してうまく対応できない。この個別性問題は「権利の非実現」としてとらえることができ、それに対しては「緩やかな制度化」(例:オンブズマンや苦情解決制度)で対応できる。

自律については、センの言う「有効な自由」(私が選択するであろうことに沿ってコントロールが体系的に行われている限り、結果として自由の意義は損なわれていない)という観点を採用し、「保護を必要とする利用者」の自律と保護の問題をともに扱える枠組みを手にできる。秋元さんはこうした利用者の多様化と人権の問題を、多角的、論理的に論じている

福祉の制度論や実践論では、長い間、社会権の保障だけが論じられ、自由権の保障が論じられてこなかった。その自由権の保障論議を、利用者像の多様化を通して論じるという視点は大変興味深い。

実践論に関心をもつ者としては、モチベーションと行為主体性(エージェンシー)の概念を用いた利用者像の変遷と類型(1章「福祉サービスの利用者像」)、介護保険のフォーマリズムと消費者主義では対応しきれない問題(2章「福祉サービスと契約」)、保護を必要とする人々のパターナリズムが正当化される条件(3章「保護を必要とする利用者」)が特に勉強になった。


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No100 リンダ・ジンガロ、鈴木文・麻鳥澄江訳 『援助者の思想――境界の地に生き、権威に対抗する――』  お茶の水書房 2008年


キーワード: エンパワメント、実践家、自己開示、境界の地に住む実践者

本書で言う援助者とは、「境界の地に生きる」実践者、つまり、社会の周縁に追いやられ抑圧されてきた存在である/あった人々で、援助者としての役割をとる人々のことである。

アルコール依存症や薬物依存症などのアディクションをもつ/もっていた人々が、同じような問題をかかえる人々に対して援助者の役割をとることは、その人たち自身にとっての回復と維持を助けることになる(ヘルパーセラピー原則)。だから、アディクションの領域では、回復者がヘルパー、援助者として活動することは望ましいこととされてきた。

しかし、それは、社会の主流文化の価値や規範の枠内の話である。本書は、援助者が、そうした主流文化に絡めとられることなく、社会から「おぞましいもの」として周縁に追いやられ、抑圧されている人々をエンパワメントとすること、同時に、主流文化の価値理念や不公正・不公平を生む社会構造を指弾し、社会変革を追求するには、どのようであればよいのかを、問うたものである。

著者は、当事者が自身の物語を語ることがエンパワメントになるという単純な考え(エンパワメント至上主義)を批判する。主流文化にいる人々が理解できるよう語ることは、結局は 主流文化の期待に沿った語りを強いられ、傷つく危険性も高いのだ。それに、おそらく、主流文化に言い寄ったとして、当事者仲間から厳しいまなざしを受けるおそれも強い。

著者は、境界の地に生きる実践者たちに、「自己開示」に関するモデル事例を提示し、それについてどのように考えるか、自分たちはどう「自己開示」してきたのかを語ってもらっている。

境界の地に生きる援助者は、「本物」として「語ること」が権威をもつことであるとともに、危険性をもつことを十分に理解すること、そのうえで、力を奪われている存在とその被抑圧性を主流文化の人々が理解できるよう、周到に準備した「磨かれた物語」を自己開示すること。そして、語らないという選択も主体的選択として尊重すること。

著者は、エンパワメント至上主義は否定する。だが、境界の地を生きる実践者が「磨かれた物語」を語ることによって、周縁に追いやられた人々をエンパワメントすることは必要なことだとしている。

当事者が語りを通してエンパワメントすることが結果として主流文化に適合することになるという逆説を、著者は、境界の地を生きる実践者の「磨かれた物語」によって回避しようとしている。

トラウマについて「語る者のポジショナリティ」を論じた宮地尚子さんの「環状島」のモデルで言えば、死んで「内海」に沈んでしまわずに、かろうじて生き残って「波打ち際」に届き、そこから「内斜面」の陸地に上がって、言葉を発することができる者たちになり、言葉の力を増して、雄弁に語る「尾根」に登った当事者としての存在と、尾根の「外斜面」にいる非当事者(支援者や関心をもつ者)としての存在を合わせもつ、境界の地を生きる実践者。

「当事者性、発言権、証言者としての正当性、被った被害や抱える負担の大きさ」が大である当事者と、それが小さい非当事者の両方の立場を理解しながら、あくまでも当事者のポジションから発現していく。しかし、「尾根」の高みにいる非当事者でもある当事者としての実践家は、「波打ち際」にいる当事者にどう見えるだろうか。


回復者スタッフが専門家と対等にプログラムを運営しているアミティなどの実践例を学びたい。

本書のタイトルは、Rhetorical Identities: Contexts and Consequences of Self- Disclosure for ‘ Bordered’ Empowerment Practitioner である。
しかし翻訳本のタイトルは、「援助者の思想;境界の地に生き、権威に対抗する」である。

タイトルをこのように意訳したのは、訳者たちが、境界の地で生きる実践家よりもむしろ、専門家として主流文化にいる普通の援助職たちに(そして、研究者たちに)、メッセージを送りたかったからである。それは、著者が一貫して示しているような、「当事者を傷つけない」倫理意識と、「不公平・不公正をなくすための社会変革を目指す」倫理意識をもつことである。

エンパワメントを訳本のタイトルに入れなかったのは、ディスエンパワメントの機能をもつ行為すらエンパワメントとして語られるコンテクストがある以上、誤解されるおそれを回避したかったからではないか。
No62 ピエール・ロザンヴァロン 北垣徹訳 『連帯の新たなる哲学』(原著は1995年、『あらたなる社会問題』)けい草書房 2006年

キーワード:福祉国家、排除、連帯、社会的なものの個人化、社会的参入

政治思想史や現代社会分析を専門領域とするフランスのロザンヴァロンによる「能動的福祉国家論」である。ソーシャルワークに触れている部分につながるところを取り上げた。

リスクは平等に分配されているとともに偶然の性質をもつ、という前提のもとに成立した保険は、福祉国家における社会保障の中核として発展してきた。だが、今日、不安定や脆弱といったものは偶然ではなく決定論的観点に移行しており、この前提自体が成り立たなくなっている。その象徴的な例が、定常化している排除であり長期失業である。

1960、70年代のヨーロッパ経済は、賃金生活者全体のあいだに暗黙に再分配が存在しており、これが社会の凝集力と結びついていた。しかし、大量生産大量消費型のフォーデイズムから柔軟な生産様式へ移行し、生産システムのなかの社会保障的なものは除外されることになった。より効率性を欠いた非熟練の賃金労働者は、かつては企業のなかに組み込まれていたが、今や補償金を受ける失業者となった。

排除に対して賃金を与えるという2つのモデル:ハンデイキャップモデル(障害者手当て、補償手当て)と生存所得モデル(ベーシックインカム)があるが、これらは、社会的なもの(連帯)と経済的なもの(効率)を根源的に分けることで、雇用問題を二次的なものとし、結果として排除を担保してしまう。そうではなく、労働による社会参入こそが、排除に対する闘争の基盤であるべきだ。

保険に代わる社会的なもの、つまり、社会的参入の新たな経済的形式を探求する例として、RMI(社会参入最低所得)がある。これは、個人のライフサイクル上のニーズや適正に応じた活動を認めるもので、社会扶助でも保険でもない、第三の途である。受給者の機会の平等を豊かにする手続き的権利と呼んでよい。アメリカのクリントンが行った家族援助法もその例である。

ソーシャルワークの実施において、契約の概念にますます頻繁に言及するようになったことは、こうした第三の途が開かれたことに対応している。あるソーシャルワーカーは、「契約によって相互的関係が定着し、受益者はみずから固有の未来に責任をもつ当事者とみなされ、社会の側には手段にかんする義務が生じる」と記している。

従来の福祉国家においては、(1)目標となる特定階層を対象として構成し、(2)権利や特定の手当てを整備する、そして、(3)専門家としての公務員やソーシャルワーカーがシステムの管理を支え、申請者が給付の権利を有しているかどうかチェックし、規則とその対象者との適合関係を規制する、というシステムがあり、長期にわたって有効であった。しかし、今日の排除の問題、長期失業者と過剰債務世帯についてみても、いずれも、社会政策の伝統的な意味での集団や特定階層がおらず、管理すべき対象は個別の状況となっている。従来のシステムはもはや適さなくなっている。

こうした個別の状況を評価するには、ある種の判断の下に人々を置くことになる。それは一種の社会統制となり、ソーシャルワーカーは、人の行動をコストや効率の観点から判断し管理するという新たな管理者となる。

個人化された観点から扱うことが恣意的扱いにならないためには、手続き的権利(各個人に固有の手段を与え生活の流れの方向を変えて破綻を予防する、ための扱われ方の公平さ)を保証し、救済や苦情対応のシステムを整備する必要がある。これによって、社会的なものの個人化は、かつてのパターナリズムに回帰することを回避できる。

著者が言うように、排除や長期失業の状態に置かれている人々の原因がより個別的なものになり、個別的な対応が可能なプログラムが重要になってきているなら、ソーシャルワーカーの仕事は重要性を増す。

しかし、その仕事が、利用者の社会関係づくりの機会を拡大する役割とともに、コストや効率の観点から利用者を管理するという役割をもつものならば、この二重性は従来のものと変わらない。他方、その仕事を規制し監督するシステムも強化される。
ソーシャルワーカーが魅力ある仕事になることは可能なのだろうか。
No57 上野千鶴子『生き延びるための思想――ジェンダー平等の罠――』岩波書店2006年

キーワード:市民社会、公的暴力、私的暴力、プライバシーの解体、生き延びるための思想


DVや児童虐待、高齢者虐待に関心をもっている者としては、本書のあちこちで触れられている暴力論が興味深い。

市民社会は、構成員同士の暴力を抑制する代わりに、国家に公的暴力の組織化を、他方で私的領域の暴力の容認を行ってきた。

公的暴力も私的暴力も犯罪化すること、暴力の行使を市民諸権利の一部としないこと、が市民権を脱男性化することである。

私的領域における暴力からも、公的領域における暴力からも逃げること、暴力のシステムに組み込まれないこと、暴力のサイクルから降りること。特に、私的領域においては、「プライバシー」を解体して、市民社会の公的ルールを私的領域に持ち込むこと。

この発想は、アデイクションアプローチで有名な臨床心理士の信田さよ子さんの主張にもとづいている。DV被害者に対し、援助者は、「教育により当事者意識をもたせ、徹底して逃げよ、と説得すること」である。そういえば、信田さんもDVの暴力と国家暴力とを並置して議論していた。

DVと同じように、息子から暴力を受ける老いた母親に当事者意識をもたせることも、ときにむずかしい。そうした息子もまた、リストラで失職、多重債務、アルコール依存症、長年の引きこもりなど、社会の「被害者」である場合が少なくない。

もう一つ興味深い主張が、「尊厳ある生」の否定である。

「尊厳ある生」の主張は、「尊厳ある生」が維持できないときは、尊厳死・安楽死を選ぼうということ。これは、ネオリベラリズムの「自己決定・自己責任」の論理と同じ。「尊厳」を価値としたとたんに、それは「生」よりも大切な価値になってしまう。

「ぼけて垂れ流しになっているあなたや私に、そのまんまいきていていいんだよ、といってあげる」、「生き延びるための思想」。

フェミニズムがそうだったように、今後は、貧困層や低階層が思想の言葉を獲得して、当事者による新しい「生き延びるための思想」が生まれるだろう、と著者は期待している。
No,54 清水哲郎「浸透し合う諸個人」(清水哲郎『医療現場に臨む哲学Ⅱ ―― ことばに与る私たちーー』 けい草書房 2000年

キーワード:自己決定、個人主義、共同決定、

かつて清水氏は、医療現場における自己決定の尊重について、(1)措置を実行しないと重大な損失が見込まれ、かつ(2)患者の人生観・価値観・信念等に照らしても、その措置の強行が重大な損失を与えることにはならないと判断される場合には、これは制限される、と提案していた。

しかし、本書ではこれを改定する。大きな事故にあい瀕死の状態にあるD氏の「死の自己選択」に対して医療側が介入して治療継続した事例をもとに、「生死を左右する場合はこの限りではない」、つまり、自己決定尊重ルールが適用されない、と主張する。

これは、現実の自己決定(現在のある時点における理解のもとづく意思)よりも、将来の認識の可能性(時間の経過とともに変わりうる意思)を優先することが妥当であるという、医療者の見込みによる判断(パターナリズム)による。

医療者が、患者もきっと将来は是認するであろうと予想して、現在の患者の自己決定に反する選択を行うのは、生きていてよかったという生の肯定という社会の価値観に医療側がコミットしているからである。

つまり、自己決定の優先で例外的に制限、ではなく、社会全体が公認している価値観にしたがって医療側が事態を判断、その範囲内で許容される自己決定を尊重するにすぎない、と清水氏は言う。

また、人生に関わる度合いや生死に関わる度合いが強ければ強いほど、患者自身のことであると同時に家族のことであり、社会成員に関わることであるから、自己決定が決定的ではなく、患者、家族、医療者の共同の決定が決定的だと述べている。

助かる見込みがあるから、今の苦痛、苦悩には耐えよ、将来はよかったと思うから、という社会の価値観にもとづく医療者に対し、この苦痛、苦悩に耐えられない、耐えたくない、死にたい、という「弱い存在」である者は、どうすればよいのだろう。緩和ケア、スピリチュアルケアを行うから、セルフヘルプグループやピアカンセリングを用意するから、あなたを一人にはしない、一緒に苦痛、苦悩に耐えるから、だから、「生きて」と、家族から医師から、ソーシャルワーカーから、同じ苦痛・苦悩を体験した人から言ってもらえれば、耐えられるだろうか。耐えなければならないのだろうか。

清水氏が想定している家族は、鎌田實さんが『あきらめない』、『がんばらない』(集英社文庫)で見せてくれているような、素敵な家族のようだ。社会福祉の現場に立つと、そうした素敵な家族のほうが例外のようにみえ、家族との共同決定は危ない、と感じさせるのだけれど。

清水氏によれば、医療では、社会が共通して「欲する」ことに患者がコミットしない場合は、患者の選択を優先させ、社会が共通して「べきでない」と考えることに患者が反する選択をする場合は共通意思を選択すればよい。

しかし、福祉では、介護から予防へという潮流にみられるように、社会のマジョリテイの意思を前提とした政府の「欲する」ことを、高齢者が選択するようプレッシャーがかけられつつある。社会が「べきでない」と考えることに患者が反する場合には、もちろん、種々多様な介入が行われる。社会福祉、特にソーシャルワークは、社会のモラルエージェントとしての機能がより強い。

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