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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

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小林桜児『人を信じられない病―信頼障害としてのアディクション―』(日本評論社2016年)のご紹介

(安心づくり安全探しアプローチのブログに書いた本書の紹介記事に、紹介内容をプラスしてアップしました。)


アルコール依存症の人たちに対する援助アプローチとして「動機づけ面接」が主流になっているのに、昔の「底つき体験」を進めることが基本、と考えている援助職がまだ少なくない、という話を、先ごろ、PSWの知人から聞きました。


私自身、昔、「障害者・病者と家族関係」とか「アルコール依存症者をめぐる相互作用とラベリング」といった論文を書いていたとき、妻が夫の飲酒に関与せず「妻自身の人生を生きる」ことを支援することで、夫の「底つき体験」をもたらす、ということが効果的な治療法と考えていました。

高齢者虐待防止の安心づくり安全探しアプローチ(AAA)を仲間と開発したころ、援助を拒否する人へのアプローチを検討した際、「動機づけ面接」の本に目を通しましたが、そのときは解決指向アプローチと似ているなという印象をもっただけで、きちんと読まず、それ以上、理解しようとしませんでした。

ですので、今回の知人の指摘は、私自身にもあてはまりそう、と思い、知人に学ぶための本を推薦してほしいと頼みました。アディクション全般について読みやすいものとして教えてもらったのが本書です。

興味深く読みました。特に、アディクションは信頼関係障害であるということ、その「仮説」に基づけば、アプローチは当然、「動機づけ面接」になることがよく理解できました。

以下、小林さんの文章を勝手にまとめさせてもらい、一部ご紹介します。

***

覚せい剤や多剤といったハードドラッグ群のアディクトたちは、貧困家庭に育った者が多く、15歳までに親による虐待や暴言にさらされた体験、離別や自殺などによる親の喪失体験、怠学や非行経験、いじめられた経験などをもっている者が多い。

彼らは、いくつもの生き辛さのなかで、なんとか生き延びてきたものの、安心感や安全を提供してくれる他者との出会いがないまま孤立していった人たちである。

アルコールや向精神薬、危険ドラックなどのソフトドラッグ群のアディクトは、ハードドラッグ群に比べると虐待体験など明白な生き辛さをもっておらず、学校を卒業し、就職してそれなりに社会に適応している者が多い。

だが、親に抑圧、支配されてきた生育歴など、その人なりの生き辛さを抱えている。心理的安心感や満足を犠牲にし、我慢と周囲への過剰適応によって生き延びてきた人たちである。しかし、周囲に自分の感情を受け止めてもらえない無力感と、抑圧された不満や怒りは決して消えていない。

全般的に「明白な生き辛さ」を抱えているハードドラッグ群のアディクトたちも、「暗黙の生き辛さ」を抱えているソフトドラッグ群のアディクトたちも、信頼感が総じて低い。ハードドラック群とソフトドラック群のうちのアルコールのアディクトは、重症な者ほど他者への信頼度が低く、ソフトドラッグのうちの薬物アディクトたちは、自分への信頼度が低い。

どちらにしても、なんらかの生き辛さがあり、それによって、早い段階で家庭や学校に居場所を失うか、居場所があっても我慢と努力(過剰適応)を続けなければ、周囲に見捨てられてしまうとういう不安を抱え、やがて、人よりもアルコールや薬物という「物」の薬理効果に頼り、しがみつくようになっていく。

つまり、アディクトは「信頼障害」と言える。

こうしたアディクトたちに対する支援の方法としての動機づけ面接の原則は、以下のとおり。

・ 「やめさせたければ、『やめろ』と言わない。」正論を説くという「正したい反射」は、反発心を誘発する。
・ 「上からの目線」を排除し、援助者の価値観で裁かない
・ 患者が関心を寄せる話題を優先する
・ 患者の欠点より長所をみつけること
・ 患者の語っている内容から、その本意を援助者が汲み取り、要約して返すこと
・ 断酒断薬へと踏み出す「変化の言葉」を換気するような開かれた質問を行っていく
  「現状の何を変えないといけないと思っていますか?」
  「仮に断酒断薬ができたら、何が変わるでしょう?」-----


信頼障害の彼らに、ラベリングをせず、ステレオタイプ的な思い込みも廃して、徹底して信頼を寄せ、話を訊く。


たとえば、

初診でイライラしていた彼に対して、犯罪者扱いせず、たんに発達障害などとレッテルを貼ったり、覚醒剤が脳に与えた影響で、衝動的な覚せい剤の使用がとまらなくなった人、などと短絡的に解釈したりすることもなかった。 生き辛さや、本人の言い分に耳を傾けると、次第におだやかな表情と口調になっていった。


対人不信の歴史に共感を示すことで、かれらが物ではなく、人に頼ってみようと思い始める可能性が生まれる。


人を信頼すること、人に頼ってよいのだと思えるようになることが、かれらにとっての回復なのだから、通院してきていて、アルコールや自傷行為などがとまっている、「大丈夫です、止まっています」と言うだけの患者には安心することができない。 


人の前で、自分の多様な感情を言葉にできず、過剰適応を続けているのだから。まだ、人に適切に頼る能力が身に付いていないのだから。  


アディクトにとって見捨てられたくない人は、家族など親密な人。見捨てられたくないからそれらの人には本音がもっとも言いにくい。だから、本音の感情を正直に話す練習相手として、最初に出会う援助者が重要。


面接の場面で、かれらが日々思っていることを感じていることを正直に話す練習ができ、
援助者がその感情言語に気づき、積極的にフィードバックすること。
 負の感情⇒  そんな気持ちになるのは当然、よく気づけましたね。
        正直に言えて偉いですね。   
 援助職に怒ってきたとしても ⇒  よく怒りをだせましたね。


援助職として気になる点が、アディクトが違法薬物を使用したり所持したりしていることを聞いたとき。このとき、警察へ通報するならば、せっかく勇気を出して援助職を信じてみようと思ったアディクトの気持ちを踏みにじることになる。これは、信頼障害を決定的に悪化させる行為である。


アディクトはほんとうに人を助けてもらえるか不安で信じられないから、人に頼ってみるという大きなジャッンプをすることを躊躇し、つい、昔の癖で物や単独行動に頼り続けてしまう。


その根源的な不安を解消するためには、不安がっていて次のステップに踏み出せないだめな自分も受け入れてもらえた、という成功体験の機会を援助者が何度も提供しなければならない。

********


本書に書かれている動機付面接の原則や、その原則に則った対応は、信頼関係(ラポール)の形成を第一に考えるソーシャルワークそのものです。また、関係形成が困難な養護者との関係づくりの方法として、解決志向アプローチに基いて開発した安心づくり安全探しアプローチ(AAA)と重なっています。


信頼関係障害をもつアディクトに、状況の変化への意欲、動機をもってもらうためにやることは、まず、信頼関係づくり。言われてみれば当然のことですね。ただ、動機づけ面接が、信頼という資源を獲得し直すために、感情表出を大変重視していると思います。

(著者は、他者が信頼できないこと、自分を信頼することができないことを合わせて、「信頼障害」と名付けていますが、私は信頼関係障害と呼ばせてもらいました。)


ただし、著者もきちんと指摘しているように、このアプローチは、断酒断薬の必要性を一切感じていない人には効果があまり期待できないですし、そもそも面接にやってこない人にはどうするか、という問題があります。

また、著者も言及しているように、信頼関係障害仮説がすべてのアディクトに当てはまるわけではないでしょう。


それでも、信頼関係づくりを第一とする面接法は、相手を傷つけるおそれがほとんどない、やってみるべき価値のあるアプローチでしょう。改めて動機づけ面接にかんする本を読み、その基盤となる理論や理解し、高齢者虐待事例への対応法の一つとして考えてみたいと思います。


また、動機づけアプローチの感情の扱い方についても学びたいと思います。というのも、安心づくり安全探しアプローチ(AAA)の研修では、このアプローチ、というよりも基盤とした解決志向アプローチが、否定的感情の緩和や肯定的感情の醸成に役立つこと、この肯定的感情が状況変化への意欲を喚起することなどを話しているからです。
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No.103  中野民夫・森雅浩他 『ファシリテーション――実践から学ぶスキルとこころ――』岩波書店、2009年


キーワード:ファシリテーション、ファシリテーター、スキル

ファシリテーションは、本書にもあるように、あらゆる実践分野で必要な「スキルと考え方」になってきた。ファシリテーションは、グループやチームによる話し合いを進めるスキル、ノウハウを指すだけではない。

「学校や社会教育、地域や市民活動やNPO/NGO、企業や行政、医療や福祉、農業などの現場で、参加型の場をつくり、集う人の智慧と思いを紡ぎながら何かを改善していこう」という人々の思い、「この世の中をもっとまともにしたい」という願いを実現するための、「平和で持続可能な社会づくりの共通基礎文法」なのである。この思想があるから、岩波から本書が出されたのだろう。

ファシリテーションの実際として5つの事例が紹介されている。鈴木まり子「市民参加を進めるファシリテーション」を読んでいると、ファシリテーションの考え方とスキルが、地域のソーシャルキャピタルづくりに貢献するその過程がわかって面白い。

「地域づくり」は、市民が政策決定過程や政策モニタリング過程に公募市民として参加するとか、行政機関が地域ネットワークづくりの講演会やシンポジュウムを開催する、地域包括支援センターが民生委員協議会に出向いて協力支援を要請する、などなど、さまざまなレベルで多様な方法が試みられているだろう。だが、「市民参加を進めるファシリテーション」はもっと広がっていい。

「大学での参加型授業を実現するファシリテーション」も、多くの大学におけるFD(ファカルティ・デヴェロップメント=教員教育)に参考になるはずだ。

地域づくりも学習も、その意欲や意識を持ってもらうことから始まる。そのためには、参加を楽しい、面白いと感じてもらうことが必要だ。そうした体験をもってもらうためには、ファシリテーションのスキルは欠かせない。

ソーシャルワーカーは、家族との面接や職場でのミーティング、関係機関とのカンファランスなどで、ファシリテーターとしての役割を求められることが多いはず。「ファシリテーション」から学ぶことは多い。
No98  若島孔文・生田倫子編著 『ナラティブ・セラピーの登竜門』 アルテ 2008年

キーワード:ナラティブ、物語、ブリーフセラピー


昨年(2008年)の秋以降、時代は「100年に1度の経済不況」期に入ったとのこと。ブームであった「癒し」や「ケア(思いやり)」も、今やそれどころの話ではなく、制度改善・創設を急げ、という感がある。

だが、足元が一気に瓦解してしまうおそれのある時代だからこそ、また、家族や周囲から関心をもたれないままこの世を「departure」していくおそれのある時代だからこそ、「語り」と「傾聴」が、つまり、「癒し」と「ケア」の手法がこれまで以上に求められているとも言える。

そこで、ソーシャルワークの世界でもナラティブ・アプローチへの関心が続くことになる。しかし、このナラティブ・アプローチ、社会構成主義という認識論に立つことと、「外在化」という視点/技法(?)を採用することはわかっても、どのようなアプローチなのかよくわからない。

「not knowing(無知の姿勢)」という用語にひっぱられ、「専門家は専門性を発揮しないで会話の内容や方向性をリードせず、クライエントに自由に語ってもらう」という、ナラティブ・アプローチのイメージがソーシャルワーク界に定着しているからだろう。ジョン・マクレオッド『物語としての心理療法:ナラティブ・セラピィの魅力』(誠信書房)をちょっと読んでも、わかりそうにない。

本書は、まえがきで、「ナラティブ・セラピィの『実態のなさ』、『所在のなさ』は、ナラティブ・セラピィのマスターセラピストたちが、当時の最新の認識論を取り入れたことを強調し、実際の面接について多くを語ってこなかった」ことにあると言明し、実際を語ると言っている。

最初に、編者のひとりが、「ナラティブ・セラピィによるクライエントの物語のふくらみも、まさにカウンセラーの力量によると思える。力量がないと、『どこにいくのかわからないセラピィ』になる」という言い方をしている。つまり、セラピィである以上、専門家は専門性を発揮する。では、どのように?

息子の不登校で相談に来た母親の例を使った説明によると、以下のようなことがナラティブ・セラピィの手順ということになる。

①クライエントが自分や家族に起こっている問題(不登校)について語るのを聴く

②問題がその人の生活や人生、人間関係にどんな影響(不登校問題がもたらす夫婦関係や自分の人生への影響等)を与えているのかを聴く ⇒ クライエントにとっての個別化・特殊化されたストーリー;一般的な不登校という記述からの切り離し 

③その影響を受けなかったときを探る = ユニークな結果の探索; 語られなかったストーリー/ストーリーになることがなかった小さな出来事を探しだす = ②を経ているので、問題自体の変化にとらわれる必要がない( 問題を解決できなかったというドミナント・ストーリーの構築に手を貸さなくてすむ)

④ユニークな結果が生活や人生にもたらす影響を探る = 新たなストーリーの生成 ⇒ 問題(①ではなく①が生み出した②の影響という問題)の存続に対する影響を探っていくことへの動機づけ

⑤ユニークな結果を拡張する; 問題の影響と問題に対する影響の割合を質問するという方法も採用 ⇒ 問題に支配されていた自分から問題に対して影響をもつことができる自分というあらたなストーリー。
影響をもつことができるようになる方法として擬人化があるが、メタファを使わなくてもよい。対処の方法をセラピストと一緒に探していく。
セラピストはクライエントの語る新たなストーリーの聴衆に。さらに、多くの人が聴衆になるのがよい。このように考えれば、問題の外在化は、ストーリーに関わる聴衆の座席が作られると考えることができる。

上記の「ユニークな結果」は、ソリューションフォーカスト・アプローチの「例外」と同じだ。ソリューションフォーカスト・アプローチほどには質問技法を明確化していないのは、「クライエントの解決方法を知っているのはクライエント」という基本を押さえて流れを進めていけば、あとは自由自在にやればよいということか?

本書6章「物語としての感情」では、ソリューションフォーカスト・アプローチでは正面から取り上げない「感情」を扱うという興味深い論を展開している。

アメリカと違って、日本のソーシャルワーカーがナラティブ・セラピィを直接やることは、当分のあいだほとんどないだろう。だが、ただ「語り」を「傾聴」するだけではなく、解決の方向性を探るためにクライエントとともになにをすればよいのか、それを知っておくことは、実践に役に立つはずだ。

ただ、ソーシャルワーカーは、(問題がありすぎて/問題を認めたくなくて/etc.)、「問題」が何かわからない人々/「問題」を「問題」として自覚していない人々/「困り感」のない人々/etc. に多く直面する。こうした人々を語りの場に導く方法・スキル、ソーシャルワークはそれらを整理して提示しなければならない。すでに多くの方法・スキルが使われているのだから。

ここまで書いた後、ナラティブ・アプローチをソーシャルワーク実践に活用した荒井浩道さんの「繋がっていかない利用者への支援――ソーシャルワークにおけるナラティブ・アプローチの可能性――」(崎山治男他編『<支援>の社会学』青弓社)を発見しました!
No71  安冨 歩 『複雑さを生きる ――やわらかな制御――』 岩波書店 2006年

キーワード:複雑系、コミュニケーション、ハラスメント


一見、福祉とは関係なさそうなタイトルである。でも、個人、家族、地域など、複雑な「問題」状況を扱うソーシャルワークを再考する際のヒントが得られるかもしれない。

なにしろ、「はじめに」で、本書の目的は、複雑系科学に関する知識を踏まえたうえで、「複雑で多様な世界とかかわるための具体的方策の提案」をすること、「現代の諸問題に対処するための科学的思考法」を提供すること、と書いてあり、かつ、

「本書の議論から導出される生活上の教訓をまとめ」として、ソーシャルワークが寄って立つべき人間観が、次のように書かれているのだから。

われわれ人間にひとりひとりの心身には、信じがたいくらいに高い計算能力がそなわっており、その力を活用しなければ、複雑な世界を生きることはできない。その創造的な力の作動を恐れ、外的な規範にとらわれ、直接的な目標達成のためにがんばることは、事態を悪化させるだけである。ものごとに取り組む場合には、その置かれた状況を視野にいれ、学習能力を活性化し、間接的で動的な働きかけを行わねばならない。そのために必要な暗黙の力があなたには必ずそなわっている。


複雑系科学の知識を理解できたかどうかは心もとないが、2章「関係のダイナミクス」、3章「やわらかな制御」5章「やわらかな市場」では、若干のヒントを得ることができたように思う。

2章「関係のダイナミクス」では、コミュニケーション過程で、相手が自分と同じ世界をなんらかの形で共有しているはずだという寛容にもとづく思い込みは、外的規範の基礎であるとともに、「ハラスメント」と呼ぶような支配・被支配関係を生み出す危険性を常にはらんでいる、と指摘する。

著者による、コミュニケーションがハラスメントとなる機構の記述は、DVの描写そのもの、である。著者に従えば、コミュニケーションはハラスメントの契機を常にもっていることを認識したうえで、利用者の周囲とのコミュニケーションの状況を理解すること、ソーシャルワーカーの利用者とのコミュニケーションがハラスメントに陥らないよう、また、利用者からハラスメントを受けないよう、コミュニケーションを相互の学習過程;学びあいの過程とすることが重要なのだ。

5章「やわらかな市場」では、市場を価格と需要・供給で構成される「マーケット」と考えるのは不適切だと断言する。市上は、人と人が関係構築と情報収集にいそしみ、やりとりが繰り広げられる「バザール」に近く、その傾向はインターネット化とボーダレス化によって拡大している。企業の目的は、金儲けではなく、顧客とのコミュニケーションを活性化させること、これこそが世界経済におけるサバイバルの方法なのである。

同じように、個人主義化による共同体や家族の「紐帯」の弱化、崩壊が問題なのではなく、人々が相互に学習過程を開いた形でコミュニケーションできるかどうか、である。ハラスメントを押さえ込む形での関係づくり、それを地域のなかで、家族のなかでどう実践できるか、制度の補強ではなく、コミュニティワーク、ファミリイソーシャルワークの方法・技術の問題だ。

No69  須藤八千代・土井良多江子・湯沢直美・景山ゆみ子 
『相談の理論化と実践――相談の女性学から女性支援へ――』
新水社 2005年

キーワード:フェミニズム、相談、女性学


ソーシャルワークのアプローチなかに、フェミニスト・アプローチというものがある。フェミニズムの視点からソーシャルワークを行うものだ。

女性学の視点から相談に応じる、ということである。本書に序文を寄せている内藤和美さんによると、「相談の女性学」は、「女性学の認識や方法や成果によって組み立てられ営まれる相談」である。

「相談を男性優位社会のなかで奪われてきた諸々の力の回復を援助するためのシステマテックな活動と認識」し、「相談者である女性たちの困難・問題を個人的事情というよりむしろ社会構造に起因するものと捉える」ことである。

では、具体的にはどのように相談に応じ、支援することなのか。

湯沢直美さんが「母子世帯の子どもが餓死した事件とその裁判事例」を取り上げて、それをうまく説明してくれている。

ジェンダーの視点による「見立て」によって、問題を「個に埋没」させることなく、その「本質」を可視化すること。ストレングス視点によって、「クライエントこそが自分の問題に関する専門家」であるという視点に立ち、相談者自身が「問題解決力を発動していく」という援助関係を形成すること。

「他人事」を、共感によって「私たちの事」「社会の事」に転換し、「特殊から普遍へ」「ソーシャル」+「ワーク」へ。

制度自体がジェンダー規範を体現していることを十分に認識したうえで、問題解決に向けた方策をともに考えること。

「相談者」によって「話される」言葉、「放された」言葉を、時代の証言として受け取るという認識が、「相談の社会性」の視座を開く。

湯沢さんのポイントをこうして拾い上げるだけでは、そのうまい説明が伝わらない。

本書の1章で須藤八千代さんが指摘していることは興味深い。かつて、福祉事務所においては、生活保護の申請受理や社会福祉施設への入所措置、諸手当ての支給決定といった行政処分のかかわらない相談に、組織の人々は関心をもたなかった。

また、生活保護などのサービスニーズをもって福祉事務所に来た人を、制度利用を抑制するための「慰め」や「励まし」で帰すことに「相談」という言葉が用いられる現実があった。「相談だけでごめんなさい」という謝罪。

「相談者が期待していたなんらかの実体のある援助にならなかった相談」は、相談者にとっても、「相談を受けた職員にとっても、一種、時間の浪費にすぎないという認識が共有されていた。」そして、このような相談件数はカウントされなかった。

こうした「相談へのまなざし」は、相談員そのものへの軽視にもつながり、特に、「婦人保護事業は片隅の存在」であった。

法的制度の執行業務の一環としてあるはずの「相談(=ソーシャルワーク)」は、プラクテイカルなサービス・手当て等に結びつかないようにする「相談」であったという事実。

「相談」そのものの重要性と必要性を社会的に認知させる力をもつ民間相談機関は、長い間、わが国には、なきに等しい状態であった。1990年代になるまで、フィールドソーシャルワークの展開する条件はほとんどなかったのだから仕方のないことだけれども、福祉における「相談」の意味のなんと軽いことか。
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