Book+

福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |
No.95  時岡 新 「経験としての自立生活」 『参加と批評』第3号、 2009年

キーワード:身体障害、自立生活、支援

親族のなかにこの4月で100歳になる高齢者がいる。今は、特別養護老人ホームにお世話になっているが、2年前までマンションで一人暮らしをしていた。要介護3であったが、ほぼ寝たきりでポータブルトイレを使っていた。ウィークデイは午前中と午後2回、ヘルパーが入り食事などの世話を、土日と祭日は別居親族が交代で世話をしていた。

彼女の一番の不満は、ヘルパーの食事がまずいことであった。ヘルパーがよく交代するので、そのたびに、こういう食事内容をこういうふうに出してほしいとか、味付けはこう、ということを指示しなければならない。それもまことに面倒なことであるが、それでも自分のために、面倒くさいのをがまんして伝えていた。

だが調理の手順の悪さや調理下手については、いくらベッドから指示してもなかなか変わらない。「特に、男性ヘルパーはひどい、『いままでやったことがなかったから苦手なんです』などとヘルパーなのに言い訳を言っている」、とよく怒っていた。

本論は、脊髄性進行性筋委縮症の30代前半の男性Tさんに、介護者とのかかわりや介護者への思いを、具体的な場面に即してインタビューした結果である。本論を読みながら、上記親族の例を思い出した。

Tさんの語りを通して、障がいをもつ人にとって、その自立生活、自己決定のためには、支援のサービスがあればよいのではなく、サービスの質、直接的には、支援者の「技術」が必要不可欠であることに改めて気付かされる。にもかかわらず、Tさんは、ヘルパーに「技術」を求め、「技術」の質を追求することをためらう。

親族のように年齢のおかげで遠慮なく他人に物が言えるようになっていないからか
高齢者介護と異なり障がい者のヘルパーには若い男性が多い(同性介助原則)。だから求めることが困難、追及すれば簡単にやめてしまう、と思いこんでいるからか
介護保険の訪問介護事業所ほどに、障がい者の訪問介護事業所のヘルパー派遣が安定していないからか
障がい者のヘルパーにはヘルパー2級資格ていどで介護福祉士資格は一般的に求められていないからか、、、、

求められているのは手足代わりのロボット「技術」ではないが、むずかしい「技術」ではない。いや、どんな場合でも相手の立場や思いを推し量ったうえで実施する「技術」は高度な技術かもしれない。当事者の声を聞きながら、サービスの質を向上させていくこと。声を出して被る不利をできるだけ小さくするような/ゼロにするような条件を整えて、声を出せるような仕組みを作っていくことが必要だ。

No94で紹介した知的障がいをもつ人々の自立生活を支援する「技術」と、身体障がいをもつ人々の自立生活を支援する「技術」は、クロスオーバーしないのだろうか。
スポンサーサイト
寺本晃久・末永弘・岡部耕典・岩橋誠治
 『良い支援? ――知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援――』   生活書院、2008年

キーワード:知的障害、自立生活、支援

おもしろいタイトルである。
「知的障害をもつ人にとって、良い支援と思っていることが、実はそうとは限らない」ということを、障害当事者や代弁者、また、家族が書いた本かな、と思って読み始めた。
「そういうことをみんな考えたことあるの?みんなはどう考えるの?」と問う本であった。

「既存の知的障害福祉(つまりハコを前提とすること)ではなく、自律生活運動の延長にある支援・介助とも重なり/けれども必ずしも同じではないような「何か」を打ち立てられないかと考えている」支援者や家族がそれぞれの経験をもとに思索を展開している。

どの章も、ああそうなのか、では/そうは言っても、、、、と思考を促す興味深いものであった。

「支援するという立ち位置を超えて支援者や周囲の人々が知的障害/自閉の人の世界にひたっていく、ひきずりまわされる、ということが肯定されてよいと思う。ひるがえってみれば、そうすることは、“普通”と言われているこの世界がいかに成り立っているのか、という問いをそれぞれにつきつけることなのだと思う」

「その人の固有の流れを常に感じていることが、まず前提にあるのだと思う。できないことや指示だけに対応していてはいざ必要なときに介助にならない。できないことはそう容易く解決できなかったりする。そうではなく、何かをする、というよりも、ひたすら感じていることが、まず必要な仕事なのではないか」

「介助者はそれぞれに違う考え、違う経験、違う個性をもった人間である。介助者という他者がそこにいてしまう時点で、すでに手足になれない(ならない)要素を多分にもたらしてしまう。むしろ自分の考えを差し出してみる、置いてみることが面白いと思うし、いやおうなくそうしてしまうのだと思う。ただし、その考えは自分にとってのものでそれがふつうだとか絶対ではないと踏まえていることと、それぞれの人の考えがさらけだされる関係や場所がたくさんあるといいと思う」

「生活の主体者は利用者であるという第一原則を守るためには、介護者は単に利用者に依拠して物事を進めるというだけでは足りません。介護者一人一人が自分の個性を立ち上げて、そこから部屋の整理や掃除の仕方について考えて、その上でその利用者の個性を大事にできる方法について考えないと実現できないのです。(中略)介護者が自分の個性を出す(考えながらやる、できるだけ我慢しない)ことによって、利用者の個性を守っていくという方法、これが「利用者と介護者という違う個性をもった二人の人間が一緒にいるということという第二原則の意味です。」

重なり/けれども必ずしも同じではないような「何か」、とても大変そうだけれどとても面白そうな何かが、少しずつ見えてくる。

介助という労働と支援の制度についての思索もある。「自立生活」を考えていくにあたって必読の書。

No89 三井絹子 『私は人形じゃない』 千書房 2006年

キーワード:女性障害者、自立生活運動、府中闘争 

 三井さんは、さまざまな困難の乗り越えながら、人としての尊厳をもって生きる、とはどういうことかを、本書で示してくれている。

 内容もさることながら、文章もいい。短く歯切れがよくて、言葉に感情が込められている。それがストレートに伝わってくる。記憶力は抜群だ。子どものころの家の様子や日々の生活、お母さんとの会話、お父さんの様子、パートナーとの話し合いなど、情景描写が的確で、それらの場面が映像のように浮かんでくる。

重度の障害をもつなかで、これだけの質と量の文章を書き上げた。そのことに敬服する。とてつもない努力と持続力、書きたい・伝えておきたい、という強い意欲。そこに感服する。

施設入所にあたっての三井さんご自身やお母さん・ご家族の気持ち、施設での抑圧的な生活の実態、施設内での闘い、施設外の行政や同じ運動を展開する人々との闘い、在宅での暮らしなど、読んでいて、ああそうだったのだ、そこまでの気持ちや困難があったのだ、と新たに気付かされたことが多かった。これまでも、当事者の方のお話を聞いたり、書かれたものを読み、あるていど理解していたつもりだったが、そうではなかった。

印象的であったのは、三井さんの女性としての/人間としての自律性だ。パートナーと愛情を交わしていくなかでも、自分の気持ちや考えに合わないところ、譲れないところは、決して譲らない。三井さん世代の女性たちの多くは、好きな男性に合わせることを美徳として教育されてきたように思う。三井さんはそうした女性たちと違う。

男女関係や家庭生活における自律が、社会での自律の獲得につながる。個人的なことは社会的なこと。だから、三井さんは、パートナーにも譲らなかった。女性なのだから、また、障がい者なのだから、という二重の差別が今より相当強かった時代に、それに抵抗された。「人形」ではなく尊厳をもつ「人間」であることを実践された。それは、すごいことだと思う。
No64 河原ノリエ「ルポ:ややこしい子とともに生きる(上)」世界10月号、2006年

キーワード:発達障害支援法、地域療育センター

「軽度発達障害」と呼ばれる子どもたちは、「出産時の微細な脳のダメージなどによる器質的、機能的な障害で、ほんのわずかの発達の隔たりや遅れのある子どもたち」である。軽度であって、「はっきりとした障害ではなく、障害の表れ方も一人ひとり多様なため」、「一般社会はおろか福祉や教育の現場でも、理解と支援がなかなか得られてこなかった。」

ジャーナリストで、東京大学先端技術研究センター研究員である河原さんは、「軽度発達障害」の「ややこしい子」を抱えたお母さんである。河原さんが、年齢が進むにつれ子どもの特性に合った支援を求めたとき、「重度の障害児療育に携わる現場の人たち」は、「障害は治すものではなく、その子の状態そのものだ」「子どもを発達可能態としてとらえることは、障害児こそがもつ世界を否定することになる」といった「障害者観」を河原さんに投げつけたそうである。

また一方で、「バス代がタダになるから軽度に認定してもらって『愛の手帳』をもらっておけば?」と「やさしい刃」をつきつける人もいた。

河原さん自身、「健常と障害というボーダーラインにこだわりもがいている」のは、「自分の子どもを障害者にはさせたくないと言い続けているようで、自分自身が許せなかったこともある。」親もまた、「どっちつかずの宙ぶらりんの苦しみ」を抱えているのだ。

「専門家」にも理解してもらえない子どもと親にとって、「発達障害者支援法」の施行は、理解と支援を促進するものとして歓迎されるものである。しかし、施行されたものの、各地の取り組みは遅く、河原さんが納得いくものとしてなかなか進んでいない。

そうしたなかで出会った光明が、横浜市の「1歳6ヶ月検診」と、「軽度発達障害」の子どもと親を十分に理解し、的確なアドバイスをしてくれる東部地域療育センターのソーシャルワーカー、上原さんである。

この上原さんは、この「おすすめ本」のブログNo6で紹介した上原さんである(上原文『ソーシャルワーカー:理論と実践にーー現場からみたソーシャルワーカーの仕事――』ブレーン社)。

河原さんが紹介する、「(子どもや親を)支援する人(教師たち)を支援する」上原さんの活動は、上原さんの言葉どおり、ソーシャルワークの理論の実践化である。上原さんがお母さんたちに対して、また、教師に対して、どのような言葉遣いをしながら支援をしているのか、河原さんがビビッドに紹介してくれている。

このルポは次号に続くらしいので、ぜひ、読みたい。また、多くの人に読んで欲しい。

質の高いソーシャルワーカーの仕事ぶりが、多くの人に理解されるのはうれしいことだ。
No22 平野隆之・佐藤真澄 「重症心身障害者の地域生活に関わる支援とその費用形成」
日本福祉大学社会福祉論集 第113号 2005年

キーワード:重症心身障害者、地域生活支援、サービス利用、費用形成

       本論は、「個別の重症心身障害者が地域生活を目指すことを支援する諸事業に、社会的にどれだけの費用がかかっているか」を明らかにすることを試みた論文である。

2000年の介護保険実施前には、個別の要介護高齢者の地域生活を支えるために提供しているサービスの総費用がどれくらいか、計算を試みた調査研究がいくつかあった。こうした研究は、1989年の高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(ゴールドプラン)による在宅サービス利用の増加がみられたからこそ実施可能であった。

本論も、今国会に提出された「障害者自立支援法案」を念頭に置き、保障の目安としての費用データを提供することを目論んでいる。しかし、重症心身障害者の地域生活支援の費用について実態調査に基づいて総合的に把握したものはこれまでになく、貴重な論文である。


調査結果によると、サービス利用の実態は重症心身障害の障害程度指標と必ずしも対応関係になかった。サービスコスト面は、平均で1ヶ月約35万円。高水準の40万円以上では、居宅系サービスと訪問系サービスを組み合わせて利用。低水準の20万円未満では、通所系サービスのみの利用が多い傾向がみられた。高水準の利用ケースでも、施設入所と比較すると、施設入所ケースのもっとも低水準の層と同等かそれ以下の水準であった(ただし、これは、母親を中心とした家族介護者の無償の労働が前提となっている)。

「サービスパッケージ」の分類は4つに分類されるが、この利用タイプは、低水準の利用から高水準の利用タイプへと変わっていく。と同時に、「日中活動」「日常生活行為」「家族からの自立」という形で、地域生活が高まっていく傾向がうかがえる。

低水準のサービス利用は、家族内での介護で完結している傾向が強く、サービスの利用をセルフマネジメントできず、「自らの利用経験を根拠に形作られる利用者の利用意識が反映」したサービスパッケージを作れない恐れが強い。

「自立支援法案」は、複数のサービス利用が必要な者に限定してサービス利用計画の作成(ケアマネジメント)を想定しているけれども、こうしたケースに対してこそ相談援助事業が必要ではないかと、著者たちは指摘している。まったくそうだと思う。

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。