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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

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No101 河合幹雄『日本の殺人』 ちくま書房  2009年

キーワード:殺人、嬰児殺し、介護殺人、更生保護

日本の殺人の全体像がデータをもとに語られている。データの解釈についてもていねいだ。取調室でのビデオ撮影、死刑制度にかんする意見も非常に現実的。理想よりも、現実として何が大事なことなのか、何が効果的、効率的であるのかを考えて主張している。

あらためて、日本の殺人がアメリカなどと比べて特異であることがわかる。その最たるものは、家族内の殺人の多さだ。たとえば、2004年1年間で、実子殺し129件。実父母殺しは116件。統計上、親族による殺人が57.2%、非親族による殺人が42.8%

「家族は人の命を生み育てるところであるとともに、命を奪う可能性をもっているということ」という一文がひどく説得的である。

児童虐待の相談通報件数が急増しているが、嬰児殺しは80年代から減少しており、殺人事件の減少の半分を占めているとのこと。このことから、90年代以降の児童虐待問題のクローズアップは、子殺しや重症の虐待事例よりも、予防的観点から広く網をかけ、「子育て支援」の視点から取り上げていることが推測できる。

そういえば、ある児童養護施設のスタッフから聞いた話からは、重症の虐待となる前の段階で入所してくる被虐待児が増えているという印象を受けた。経済的理由や子育て能力が不十分などの理由から児童養育が困難な家庭に代わって、施設が一定期間子育てをし、児童の力がついてきたところで、できるだけ家庭に返していく、そうした方向性である。

他方、「介護を苦にした」殺人事件は、「かつてはまれであったが、今かなりの数にのぼるパターン」として増えている。主に、主婦が加害者で、心中しきれなかった、という例が目立つと言う。「親を世話するのに疲れ、関係が煮詰まった場合」が多く、「加害者に同情しにくい事例ではあるが、檻のなかに閉じ込めるべき犯罪者ではない」としている。

家族・親族間の殺人が多いことからも推測できるように、殺人を犯した人たちがみな死刑や無期懲役となるわけではない。では、塀の外の更生はどのようにしておこなわれるのか。

「どのような犯罪をどのような事情でおかしたのなら更生しやすいか、という発想は、本人が自力で立ち直ることを想定している」が、実際には、「10年以上刑務所にいた人は、職はなく、人間関係も切れており、「ほっておいて自力で生きていける人はいないと認識すべき」と著者は言う。

更生に成功した事例の共通点は「過去におこした事件にではなく、出所後に支援してくれる人がいた」ということである。世間は冷たい。保護司や地元の中小企業のオーナーなどの一部の篤志家と、プロの保護観察官たちに支えられて彼らは生活をする。一般の人々とは交わらない社会的境界が存在しているのだ。

ところが、いまやこのサポーターの存在やその支援機能が弱まるとともに、従来の支援のやり方が通用しなくなったと言う。一般の人々が、犯罪数が減っているにもかかわらず、体感治安が低下しているのは、この社会的境界が明瞭なものではなくなってきたことが背景にあるということなのだ。
従来のサポート体制が脆弱化し、世代や民族の違いなどから従来の支援方法が通じないこともますます増えるなかで、世間が冷たさをいっそう強固にしていくとなると、更生保護はどのように変わっていくのだろうか。今後も成り立つのだろうか。

著者は、裁判員制度の導入は、私たちが「お任せ民主主義から脱皮して、当時者意識をもっていく」よい機会だと評している。更生保護のあり方についても、私たち市民が当事者意識をもって考え、物を言っていくことが求められている時代なのだ。

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No.83  武川正吾・三重野卓編『公共政策の社会学――社会的現実との格闘――』
東信堂 2007年


キーワード:公共政策、政策科学、政策評価

英国では、1980年代以降のNPM(New Public Management=効率性を重視した政策管理)の下で、EBPが実践家に求められるようになった。アメリカでは従来からの説明責任の要請に加えて、マネジドケア環境がそれを強調している。

わが国のソーシャルワーク研究でも、近年、EBP: Evidence-Based Practice(根拠にもとづく実践)とか、 Best Practice(最高の実践)といったことが重要だ、という主張を見かけることが多くなってきた。

いまのところ、福祉の実践現場でEBPの必要性が強く認識されているようには見えない。だが、本書にあるように、社会福祉政策においても政策評価が、社会学などによって本格的に進められていくようになると、あるいは、行政の福祉部門管理職にNPMの発想をもつ人が増えてくるようになると、実践現場にEBPをもとめる傾向が出てくるかもしれない。

EBPは、目標達成(問題解決、問題発生予防)に効率的、あるいは効果的という方法を用いて実践する、というものである。この目標にはこの方法がよい、という評価を行うには目標達成を示す指標とその測定方法を定めなければならない。しかし、ソーシャルワーク実践は、多様な目標を含み、その目標達成を測定可能な指標で表すことが困難であることが多い。また、支援の方法もあれこれ試みるというのが普通である。

それゆえ、EBPはケアワークとは比較的なじみやすいが、ソーシャルワークとはなじみにくい。そう考えるのが一般的だろう。しかし、ソーシャルワークを含むサービス事業について、その効果を評価する、という作業は、自分たちの実践=サービスの質を点検するという専門職としての義務から言っても必要なことである。

サービス事業評価の方法については、ロッシ『プログラム評価の理論と方法――システマテックな対人サービス・政策評価の実践家ガイドーー』が勉強になる。合わせて本書、特に、終章の「政策評価と社会学」(三重野卓)もわかりやすく参考になる。序章「公共政策と社会学」(武川正吾)では、なぜこれまで社会学が「公共政策から遁走」していたのか、また、これからどう取り組むか、説得的に記述している。


No80 見田宗介 「近代の矛盾の『解凍』――脱高度成長期の精神変容――」 思想10月号、2007年

キーワード:日本人の意識、世代、近代、精神変容、近代家父長制家族

日本の優れた社会学者のひとりである見田先生が、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査データを用いて、日本人の意識構造の変化を大変面白く解説してくれた。

どの時代に青年期を過ごしたかという、「世代」の意識は時代が変わり、年齢が高くなっても、それぞれほぼ一貫した特徴を保ち続けるという「世代論」が、データで示されていて興味深い。

1970年代までに、人間を形成してきた世代は、人間の歴史は「加速度的」に変化していくものだという「常識」があったけれども、それは、人間の「歴史の論理曲線の第Ⅱの局面=近代という名の大爆発期に固有のことがら」で、歴史は人々の意識よりや早く、第Ⅲ期の「脱近代」/「安定平衡期」に向かう減速を開始している、のだ。

この第Ⅲ局面以後の世代においては、<近代家父長制家族>のシステムと、これを支えるジェンダー関係の意識の解体が、もっとも目立つ意識変化の領域だと、見田先生は指摘する。

これは、1970年代からの30年間において生じた、「高度成長期の社会の要請する生の全域の生産主義的な手段化=合理化、とりわけ、社会の基底における集約としての、<近代家父長制家族>のシステムと、連動する精神の全領域の、音を立てての解体」、巨大な「潮流」なのだ。

「近代の原的理念であり欲望であった『自由』と『平等』の理念を封印するシステムであった<近代家父長制家族>」。「近代の原的な理念と、近代の根幹的な原則(合理化)との矛盾を体現してきた<近代家父長制家族>」

「人間の歴史の第Ⅲの局面としての『未来』社会と精神は、この矛盾が『解凍』され、合理化の圧力から解き放たれた『自由』と『平等』の理念の実現という方向性をもつ」という仮説である。これを証明する材料は、福祉分野でも芽生えていると言ってよいか?

「<戦闘の体制>ではなく<共生の技術>としての合理性が、安定平衡の局面を生成しつづける力をもった合理性」として重要という指摘に、改めて納得。
No73 内田樹 『下流志向――学ばない子どもたち 働かない若者たち――』講談社 2007年3月

キーワード:リスク社会、自己決定


大佛次郎論壇賞(奨励賞)を受賞した本田由紀さんの『多元化する「能力」と日本社会――ハイバー・メリトクラシー化のなかで――』もそうだったが、本書もまた、社会が、子どもたちが、質的に大きく変わったことを指摘している。ただし、その評価と対策は異なるが。

「わからないことがあっても気にならない」
「意味がわからないことにストレスを感じない」
「鈍感になるという戦略」
=「学びからの逃走」
なぜか?

この問いの答えに関心のある方は、本書をお読みください・・・・
ここでは、「学びからの逃走」をもたらしている人間の孤立化、つまり、「リスク社会の弱者」についてちょっと紹介しておこう。
***
リスク社会を生き延びるには、「生き残ることを集団目標に掲げる、相互扶助的な集団に属する」ことが必要で、グローバリゼーションの進んだリスク社会を生きるのは、「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」ということを原理として生きるということではまったくない。それは、リスク社会が弱者に強要する生き方である。

リスク社会の弱者とは、端的にいえば、「相互扶助組織に属することができない人間」のこと、つまり、「獲得した利益をシェアする仲間がなく、困窮したときに支援してくれる人間がいない」人のことである。

血縁共同体や地縁共同体のような中間的な共同体を「近代的自我」の自立を阻むものとしてとらえられている。それは事実であるが、弱者が生き延びるために、相互扶助の共同体は、迷惑を掛け合うシステムとして、リスクヘッジとしてそれなりに機能していたということも一面の事実である。

相互扶助・相互支援というのは、迷惑をかけ、かけられる、ということなのだから、迷惑をかけられるような他者との関係を原理的に排除すべきではない。

多少の迷惑をかけ、かけられるという相互扶助・相互支援のネットワークのなかで、「周囲から支援や連帯をもとられるようになる『自立した人間』になっていくこと。
***
今は、こうしたコミュニタリアン(共同体主義者)的発言が、至極まっとうな意見として受け取ることができる時代なのだ。
社会福祉においても、あらためて小地域(近隣)ネットワークやソーシャルキャピタルなどに関心が向けられている。従来の地域共同体とは質の異なる、しかし、共通関心をもつ者だけから成るネットワークでもない、地域の人々が参加する新たな相互扶助・相互支援のネットワークへの関心である。
No38  鹿嶋 敬 『雇用破壊――非生社員という生き方――』 岩波書店 2005年

キーワード:非生社員、フリーター、派遣社員、パート


本書を読んでいると、気が重くなってくる。グローバリゼーションだ、構造改革だ、という掛け声のなかで、企業が正社員を極力採用しなくなってきた。「左右、どっちを向いても非生社員時代」になってきたのだ。

しかも、ヨーロッパやオーストラリアのように同一労働同一賃金ではなく、同一労働大幅格差賃金。事務の派遣社員の時給が1500円だからと言って喜んではいけない。正社員の時給は換算すれば3000円以上なのだから。

収入の低さに加えて、有期雇用のもたらす不安、自信や自尊感情の喪失、フリーターから抜け出せない憂鬱、失望感、「流されて、いつか、中高年」。こんななかで、結婚→子育ては無理な話。少子社会もやむなしだ。

低賃金で長時間働く正社員も多く、いつリストラされるかもわからない。正社員は急しすぎ、非生社員は安すぎ。何を、どこから変えていけばいいのか、変えていけるのか。

フリーターや派遣社員など、非正社員は本人が好きでやっているのだから文句を言うな、それがいやなら正社員になればいい、というのが、いかにお門違いの意見なのか、本書はデータを引用しながら説明している。
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