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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

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No97 三好春樹 『最強の老人介護』 講談社 2008年

キーワード:老人介護、ケア

介護のカリスマである三好さんの本は、どれも面白い。今回いいな、と思ったのは、「行きっ放しの思想」と「帰り道の思想」という言葉。

三好さんは、介護の時代は、わたしたちに思想の変換を迫っている、と言う。発達と進歩を良しとする思想は、老いを内包していない。発達し、進歩するだけでその豊かさを人生の豊かさにつなぐ回路がない。今必要なのは、「帰り道の思想」。

上野千鶴子さんのいう「生き延びるための思想」とも違う「帰り道の思想」。
本書は、認知症の老人が「帰り道」を探すことができるように支援する技(わざ)がいっぱい。では、「帰り道の思想」は仏教に求めようか。

本書のなかでちょっとひっかかる言葉は、「母性的介護」や「母性」。三好さんは、フェミニストから批判されてもなお、多くの本でこれらの言葉を使っている。本書でも、「母性」を「弱い立場の人、困っている人を目の前にするとなんとかしてあげたいと思う、人間が本来持っている性質のこと」と定義するなら、「介護の基本は豊かな母性だと言っていい」と述べている。

この定義、なぜ、「人間性」と言わないのか不思議だ。
「専門的知識や技術はその母性を実現するための手段」を
「「専門的知識や技術はその人間性を実現するための手段」に

「手段はいつも母性によってチェックされなければならない(中略)。もちろん、母性という主観的で自己満足になりがちなものを、冷静で客観的な専門性がチェックすることも必要である。」を
「手段はいつも人間性によってチェックされなければならない(中略)。もちろん、人間性という主観的で自己満足になりがちなものを、冷静で客観的な専門性がチェックすることも必要である。」に

変えると何がまずいのだろう?

変えてくれると、ソーシャルワークは「アートと技術」ではなく、「人間性と専門性」と言いやすくなる。
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No90  太田貞司「日本における介護福祉思想の起点」
(介護福祉思想研究会編 太田貞司・住居広士・田路慧・古瀬徹
『介護福祉思想の探求:介護の心のあり方を考える』 ミネルヴァ書房、2006年)

キ-ワード:介護、介護福祉、介護福祉思想

太田に言わせれば、介護福祉思想の起点は、1990年代に誕生した先進的なグループホームやユニットケアの取り組みにある。つまり、要介護者も生活の主体者であり、その主体が日常生活を自ら営むことを支援するという自立支援の考え方、これを実践した取り組みにある。

1963年に特養が創設され、寮母の行う世話を介護と呼ぶようになった。それまで家族が行っていた老人の世話と区別したわけである。しかし、太田によれば、精神上の著しい障害があるものは、入院治療が必要とされ、特養の対象からはずされた。認知症高齢者はまだ少なかったのだ。

介護の現場は、特養だけでなく、1973年以後の老人専門病院、1983年の特例許可老人病院、1988年の老人保健施設など、医療現場にも拡大した。1962年以降、国の制度としてのホームヘルプサービスは、80年代後半に家事援助から身体介護にシフトし、看護職と協働して在宅ケアの一翼を担うようになったと太田は言う。

わが国の高齢者福祉政策は、たしかに、1980年代半ばごろから、在宅ケアやサービスの多元的供給などを基調とするようになった。1990年代のゴールドプランにもとづくサービス拡大や、2000年からの介護保険に比べれば、わずかなものだったけれども、80年代後半には、デイサービスやショートステイの整備拡大、ホームヘルプの対象の拡大(一人暮らし老人への家事援助から、家族同居の老人への身体介護)という「在宅ケアの三本柱」が整備されることになった。

多様な民間組織からホームヘルプサービスが供給されることになれば、その質を担保する必要がある。また、家事援助から身体介護となると、介護の専門的知識や技術も必要となる。家族でも質の高い介護をする人はいるけれども、家族はよく知った老人だけが世話できる。しかし、ホームヘルパーは同じようなニーズをもつ人には、同じように身体介護ができなければならない。これは特養などの寮母も同じだ。

1987年、介護福祉士という資格が創られたのにはこうした背景がある。
1960年代から特養という場で、プロが介護を行うようになった。だが、家族が必ずしももっていない、専門的な知識と技術をもち、どのような要介護老人に対しても一定の質の介護を行えるプロが必要視されるようになったのは、1980年代後半なのだ。

しかし、太田によれば、1987年に創設された介護福祉士における支援課題は、精神的、心理的な支援の重要性を認めつつも、結果的には、入浴、排泄、食事といった基本動作、身体介護に視点を置くものであった。それが、1990年代に入り、グループホームやユニットケアのなかで、生活を営む主体として認知症高齢者の自立生活を支援するという先進的取り組みがなされるようになる。

そして、2000年の改正社会福祉法において、地域社会での生活の維持のために、身体介護だけでなく、生活のリズムを維持する支援(見守り支援)や社会参加の促進の支援、すなわち、「要介護者等の範囲が広くなり、一概には言えないものの、社会生活の維持できる日常生活の支援」が介護福祉ととらえられるようになった。

「寝たきりの介護から、離床、移乗、身体拘束防止、介護技術の確立へ」「日常生活における行動の自由の問い直し、生活の主体者としてのとらえ方へ」こうして、認知症高齢者を含む要介護高齢者に対する介護福祉思想は、「みずからの日常生活を自ら営むことを支援するという自立支援」となった。

では、官製の介護予防という目的と技術を、介護福祉思想はどうとらえるのか?また、要介護高齢者のケアには、ターミナルケアが必ず含まれる。死の不安や苦痛と向き合うことを支えるケアの思想を、介護福祉はどうとらえるのか?
No88 上野千鶴子・大熊由紀子・大沢真理・神野直彦・副田義也編著 『ケアという思想』
岩波書店、2008年

キーワード:ケア

岩波から、ケア その思想と実践というシリーズ本の第一巻として『ケアという思想』が出た。まだいくつかの章しか読んでいないのだが、全部を読めば、「ケアの思想」ではなく、「ケアという思想」というタイトルの意味がきっと了解できるのだろう。

執筆陣は多彩で、社会学者が目立つけれども、「べてる」のソーシャルワーカー兼大学教員の向谷地さんや、カリスマPT兼介護論第一人者である三好春樹さんも書いている。

本書のなかでは浜田晋氏についで年配者である副田義也氏が「青い芝のケア思想」で、障害者解放運動における理念と現実との乖離が無視できないほど大きくなり、当事者と健全者である介護者グループとの決別が生じた過程を資料に沿って追っている。

そのうえで、青い芝の会の思想について、いくつかコメントしている。そのうちの2つほどを紹介する。
①ケアの対象者となる人々の生命過程を援助し、その人格の尊厳を守り、人権を保障することを目指すケア労働、福祉労働は、現実には、対象となる人々を管理する労働、管理労働に変質しがちである。青い芝の会の会員たちは、このケア労働が管理労働に変質するのを厳しく告発した。これは同会の運動の思想的成果の1つとして評価される。

②健常者集団は青い芝の会の手足となりきるべきという主張は、心情的に理解できるが、論理的には疑問がある。CP者が「本来あってはならない存在」とされてきたという言明は、労働力還元主義が非人間的イデオロギーであるという告発である。青い芝の会は、労働力還元主義批判によってCP者を擁護しつつ、労働力還元主義によって介護する健常者を位置付けている。これは、労働力還元主義批判にもとづく労働力還元主義の主張という論理矛盾である。青い芝の会は、健常者は「友人」であるという規定をもう少し根気よくもちこたえるべきであったと思う。


運動は運動である以上、理念・原理を強く主張する必要がある。社会的に抑圧され声を出せなかった人々の運動ほど、その主張はラディカルなものにならざるを得ない。たとえ「ユートピア思想」になってもだ。
だが、運動を広い範囲の人々に理解させ、一緒に闘う人を増やすには、健常者を闘える同士に育てていく必要もあろう。「手足」ではない「同士」。ときに対立し、管理し管理されるが、志を共有しようとする関係。
No79 加藤悦子 『介護殺人――司法福祉の視点から 』クレス出版、2005年

キーワード:介護、高齢者虐待、司法福祉

近年、介護者による高齢者殺害の事件を地方新聞などでよく見るようになった。介護者がバーンアウト状態で殺害に至る事例、それまでの虐待がエスカレートした事例、いろいろだ。

加藤さんは、供述調書を含む多様な情報をたんねんに拾って、どのような経過と心理状況で介護殺人という事態が引き起こされるになったのか解釈し、それを防ぐにはなにが必要であったのか、を論じている。

博士論文をもとにした本のようで、地道で堅実な研究スタイルをとっている。事例の紹介はていねいだ。目からウロコの新しい分析視覚と結果はみられないが、今、何が必要か、という点を、貴重なデータをもとに改めて指摘した点は高く評価できる。

認知症と失禁を含む排せつの問題は、家族ひとりでの対応を超えた問題で、女性なら、家族なら、だれでもができる/「すべき」ケアの域を超えたタスクである。いくつかの感想のうちで、真っ先に思ったのがこれだった。
No56 平田厚 『家族と扶養 ――社会福祉は家族をどうとらえるかーー』 筒井書房 2005年

キーワード:家族、民法、扶養、老親扶養、引取扶養

児童扶養、老親扶養、生活扶助、扶養義務者の費用負担、世帯分離など、社会福祉における家族と扶養に関する主要な論点について、種々の説を紹介しながら、歯切れよく解説してくれている(ただし、サブタイトルの問いに対する明確な答えはなかった)。

社会福祉でもお馴染みの、中川善之助博士の「生活保持義務」「生活扶助義務」の二元論。これは、明治民法下における強固な家制度を換骨奪胎し、「家的・儒教的倫理観を基礎として後順位におかれていた配偶者や子の扶養を受ける権利を先順位に引き上げる」たもので、この理論の果たした役割は極めて大きいものであったとのこと。

また、「生活保持義務」と「生活扶助義務」の区別は、沼正也教授の自因説、他因説にもとづけば、前者には結婚する、子を設けるという、「自由意志にもとづく引受責任」という根拠(自因説)があり、後者は、親族という血縁関係(他因説)のみであって、前者がより強い義務性を帯びる、ということになる。

この自由意志にもとづく引受責任の有無によって扶養義務の強度が測られるべきで、これが、公的扶助などの公的介入に先立つ私的扶養義務の正当化の根拠とすべきであると平田氏は言っている。

「生活保持義務」は夫婦間、未成熟子に対する扶養義務であって、その内実には、身上監護(事実上の世話と世話をアレンジする行為)、b行為的監護(財産管理をはじめとする法律行為の同意・代理)=代弁的監護、c経済的監護が含まれる。これらが要保護性をもつ場合、その支援として、a福祉的支援(社会福祉サービス)、b民事的支援(親権制度、成年後見制度など)、c経済的支援(公的扶助など)が対応する。

家族の情緒的監護については、精神的支援を法的に制度化することは不可能で、実定法外で対処することになる。情緒的監護機能について法による干渉は謙抑的であるべきで、国家は家族が情緒的監護機能が果たせるよう環境整備することだけ求められる。

ただし、家族=親密圏は、家族員の人権侵害を引き起こす危険性もある。だから、家族の親密性、多元性を承認したうえで、法適用については謙抑的な態度をつらぬくとともに、後見的見地から国家は家族全体の支援を行うというスタンスをとり続けることが必要、なのである。

他方、「生活扶助義務」である老親扶養については、扶養は経済的な給付による扶養のことであって、介護労働や面倒見は含まれないと解するのが通説であって、事実上監護(面倒見)はあくまでも、経済的扶養に代わるものにすぎない。

平田氏の主張は明快である。ただ現実の児童虐待やDV対策は、まだまだ、家族全体の支援を行うスタンスに立ったものとはなっていない。謙抑的対策と家族全体の支援とのバランスは、制度ではなく、実践でとるべきなのか。

高齢者虐待防止法が施行され、高齢者福祉に携わる実践者は、扶養問題について頭を悩ませているかもしれないが、上記の点については改めて確認しておいたほうがよいと思われる。
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