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福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

No40 広井良典 『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』 岩波書店、2005年

キーワード:ケア、科学、スピリチュアリテイ、医療ソーシャルワーク、ケアとしての科学

『ケアを問い直す』『ケア学』など、社会保障やケアの側面から日本社会やその行方を論じている広井さんの新刊。終章では、「科学」とは何か、「科学のゆくえ」とは?をいつものように、大づかみで説明してくれている。

「成長・拡大の時代から経済の成熟化、定常化(定常型社会)へ」という大きな時代の変化の下で、従来の科学、すなわち、「対象との切断や自然支配・制御」は、ケア的要素をもつ方向と変容していく。つまり「対象の個別性や主観性の重視」へである。

「因果的な法則定立的なもの」から、「対象の個別性を十分に取り込んだ科学」へ、という意味での「ケアとしての科学」。「病院」という雑誌で行った、森林療法家や代替医療の実践家との対談は、そうした「ケアとしての科学」のあり方を示唆するものとして掲載されている。医療ソーシャルワーカーの職能団体(日本医療社会事業協会)の副会長との対談も、そうした1例として取り上げられている。

また、2章「医療のポストモダン」において、医療政策では、「医療モデル」(原因物質の解明とその除去という枠組みで治療を図るモデル)から、「生活モデル」(より広い視野で医療ないしケアを捉え直し、医療のありかたの根底的な見直しと質的充実と費用対効果を図るモデル)へ、という新しい潮流が出てきたと言う。

それには、高齢者ケアの分野を中心に、(1)予防的ケアへの資源配分、(2)患者への心理的・社会的サポート、(3)患者の権利ないし治療過程への参加促進、(4)終末期医療における緩和ケアの充実、(5)東洋医学などの代替医療の積極的活用、(6)医療政策の決定プロセスの見直し、そこへの患者・市民の参加、などが含まれる。

このうちの(2)は、病院のカウンセリング機能として論じられているけれど、ほとんど医療ソーシャルワークのことである。

慢性疾患の背景となる生活習慣は、心理・社会的要因が大きく関係しており、その治療には、心理的・社会的なケアのあり方が、「身体的」とされている病気の治癒過程そのものに大きな影響を与える。だから、「周辺的なサービス」に過ぎないという認識を変えていかなければならない。

こうした広井さんの主張は、医療ソーシャルワークにとって力強い味方だ。相談を通した心理・社会的サポートを中核とするソーシャルワーク全般の今後の発展の可能性についても、こうした社会動向との関連で論じられる必要がある。

終章末尾で、広井さんは、共同体や自然から切り離されバラバラになっている個人を、一方で「コミュニティー自然―スピリチュアリテイ」の層へもう一度つなぎ、他方で独立した異なる個人が関わる場としての「公共性」のほうへと開きつないでいくこと、それがこれからの時代のケアと科学の両方の中心的課題である、と述べている。ソーシャルワークは、こうしたつなぎを実践の場でも、理論(理屈)の場でも行っていけるだろうか?

No27 宮子あずさ 『気持ちのいい看護』 医学書院 2000年

キーワード:看護、ケア、傾聴

医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の1冊である。「ケアをひらく」とは、ひとことで言えないケアの世界の豊穣さをあれこれと表現することであるそうな。

本書の帯には、「夜勤明けの頭で考えた『アケのケア論』」とある。看護婦である宮子さんの直感、六感と深い考察にもとづく看護論、看護師論もまた、たしかにいろいろと考えさせるケア論だ。

「サービスの受け手と与え手のニーズはたいていの場合、相反するのが社会の常識。」それなのに、なぜ、「患者さんが喜んでくれる看護をすることが、自分たちにとってもいい看護」と言われ、看護婦自身も言い続けてきたのか。しかし、本当にそうなのか。

宮子さんは、表面的な和合をあえて乱してでも、看護する側とされる側がそれぞれの立場から、本当のことを言ったほうが「気持ちのいい看護」を探ることになると言い、「誤解をおそれず、看護する側の立場から、自分の思いを伝えたい」と、夜勤明けにキーボードを打ち続けた。 

たとえば、宮子さんは、患者さんの話をよく聞くことが苦手、つらい、と言う。看護婦、特に宮子さんのような精神科の看護婦は<傾聴>ができないといけない、と言われているにもかかわらず。話を聞くことより、話すことのほうが好き、ということもあるけれど(一般的に言って、みんなそうだと思います)、次のようなときが特に<傾聴>できないとのこと。

1つは、自分の価値観に照らしてあまりにもゆがんでいることを患者さんがいっているとき。他者への攻撃や悪意のある言葉など。もう1つは、聞いてもどうすることもできないのに、相手が答えを強く求めてくるとき。

こうしたときに<傾聴>がつらい。看護婦としての役割期待をこなせない、となると自責の念が強くなってしまいがちである。そのモードに入らないようにするために、宮子さんが体験的に得た対処方法は、前者については、「あくまでも私の考えですが」といって、自分の考えを伝え、後者については、答えをださなくてはとは思わず、でも、誠意ある態度で聞き流す、ということ。

これって、ソーシャルワークのコミュニケーションスキルとしてテキストに書かれているものだ。でも、宮子さんはなぜそれでいいのか、ということを、体験を踏まえて記述しているので、とても説得的。

No24 三好春樹 「介護のもつ力」
 (三好春樹・芹沢俊介 『老人介護とエロス』 雲母書房 2003年)

キーワード:介護、高齢者

       ちょっと前に紹介した竹内孝仁先生と並んで、高齢者介護のカリスマである三好春樹さんのエッセイ。介護の現場における実践知をいろいろ教えてくれる。
 
自己決定という幻想;
三好さんは、「日本人の主体性というのは、相手との関係、やりとりのなかで発揮される」から、特別養護老人ホームに入所中の高齢者が、何かをするのを「いやだ」と言ったからといって、「ああそうですか」ですませてはいけない、と言う。「そうなんですか?」「こうしたらどうですか?」といったように、「相手を洞察して返していく」こと。そうすると、高齢者が身体で、言葉で反応を返してくる。三好さんによれば、こうした「主体と主体がクロスするところでしか介護は成り立たない。」

ケアにおけるこの関係は、認知症の高齢者だけでなく、知的な障害をもつ人との関係においても、また、クリアな高齢者との関係においても言えることだろう。介護というケアの関係は、介護を受ける者が介護する者とのコミュニケーションを通して、その主体性を表現できる関係であるべきなのだ。介護を受ける者は、ケアの関係がもつ権力構造によって、主体性の発揮を抑制されるおそれが強いのだから。

「当事者主権」を掲げる障害当事者の人たちは、こうした介護関係を介護の専門家の押し付けとして、うっとうしいものと感じるだろうか。彼らは、介護の用語ではなく、介助とかアシスタンスの言葉を用いる。こちらの用語は「手伝い」「補助」という意味合いをもっている。ケアを受ける人は自己決定の権利の行使者、という認識にもとづいた言葉の選択である。

三好さんは、「介護の介は、老人が主体になるための媒介になる、きっかけになるという意味の介」だと言う。老人が身体と生活における主体になれるよう、介在することが、介護なのだと。

「自分の身体の主体になる」「自分の生活の主体になる」思うように動かせない自分の身体を少しでも思うように動かすことができるように、あるいは、思うように伝わらない思いが少しでも伝わるように、介護者/介助者が支援すること。こちらの表現は、障害当事者の人たちにとってもうなづける主張ではないか。

No21 竹内孝仁 『認知症のケアーー認知症を治す理論と実際――』 
年友企画 2005年

キーワード:認知症、ケア、

       いやあ、読んでよかった。従来の脳血管障害による痴呆とアルツハイマーによる痴呆の違いとか、認知症の人に対するケアについて多少は本を読んでいた。また、認知症の当事者が書いた『私は誰になっていくの』を読んだり、身近にいる認知症の人を見ていて、今までの知識ではよくわからんなあ、という思いが強くなっていたところだった。
       ケアマネジャーさんやケアワーカーさんたちに絶大の人気を誇る竹内先生のこの本で、納得できることが多かった。

       認知症は、身体的活動性、生理的ボケ、社会的関係という身体、精神、社会のそれぞれの要因が関係して生じる。認知症と正常の境はうっかりミスを自己修正できるかどうかである。認知症の人々の心理は混乱と不安,怯えと孤独感、怒りなど。閉じこもり予防こそが寝たきりと認知症予防であること、などなど。理論的説明が大変わかりやすい。

       ケアの専門家は当然のこと、認知症予備軍の高齢者も、認知症の人を家族にもつ人々も、こうした知識とケアの技術をできるだけ早期に学ぶことが必要だ。認知症はこわい病気ではないこと、適切に対処できる障害であることを早く学び、不幸な状況を少しでも減らしていきたい。