FC2ブログ

Book+

福祉関連の本の紹介と、ちょっとした福祉にかんする話題を提供するコーナーです

新年、明けましておめでとうございます。

昨年、このグロクをお読みいただいた方、どうもありがとうございました。

今年も、この本のここが興味深かった、というご報告を少しずつやっていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。
コメントに質問を載せてくれた方へ

ソーシャルワーカーのやりがいと辛さはなに?という質問、ありがとう。この質問への答えはいろいろあると思う。

やりがいの1つは、係わっているその人の生活状況がいい方向へ変化する、あるいは、その人やその家族がいい方向に変わっていく、そうした変化の醍醐味に接することができること。

辛さの1つは、こうやって係わっていくのがベターだと思っても、同僚や周囲の人が必ずしもそれを理解してくれないことかな。
No30 金子郁容 「合理性と『弱さ』のジャンプ」(野家啓一他編 『新・哲学講義』
岩波書店 2000年

キーワード:合理的人間観、ボランティア的人間観

ここ数年、「弱さ」の強さ、が社会福祉関連の領域でもよく語られる。その代表的なものが『べてるの家の「非」援助論』(医学書院)』だろう。本書の金子先生もかつて、『ボランティアーーもうひとつの情報社会――』で、ボランティアが自分から行動することによって発生する弱さ(傷つきやすさ)は、つながりをつけるための秘密の力だと論じていた。

本論では、ゲーム理論を用いてこのことを主張している。非協力ゲームというモデルのゲーム理論にあっては、プレーヤーの合理的行動(自己利益の最大化)は、機会があれば相手を出し抜くという機会主義的原理にもとづいたものとなる。だが、繰り返しゲームのモデルの場合には、相手と協力するという行為選択がなされる(最初は相手に協力する、その後、相手が協力的である限り自分も協力するが、相手が裏切ったら自分も裏切る)。つまり、ゲーム理論は、社会的協力が合理的選択にもなりうることを示したのである。

従来の経済学が基盤としてきた「合理的人間観」、つまり、人間は自己利益の追求を行い、自己利益の最大化を目指すためには機会に乗じて利益を最大化させる(機会主義的行動という原理にもとづいた)行動をとるという人間ではなく、「ボランティア的人間観」、つまり、人の役に立ちたいと思って行動する、進んで協力することを行動原理として行動する人間。

情報を共有することが基本であるネットワーク社会の進展は、こうした従来は「弱い」とされていた「ボランティア的人間観」に立ち、自発性にもとづく協力を通して、新しいつながり、新しい価値を生み出すことができる。

ただし、自発性によって協力的態度が示せるためには、信頼のコミュニティが形成されていなければならない。

信頼のコミュニティはどの範囲で形成されているのだろうか?形成・維持の条件は何か?
No29 春日武彦 『顔面考』 紀伊国屋書店 1999年

キーワード:顔、表情、無表情


心理のカンセラーも福祉のソーシャルワーカーも、面接場面では、クライエント(相談者)の言葉によらないコミュニケーションに敏感であることが求められる。

言葉によらないコミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)のなかでも、とりわけ多くの情報をもたらすのが顔の表情である。

春日先生は、この顔について、多様な角度から考察している。ちょっと不可解でこちらを不安にさせるような顔の写真や漫画も載っている。

「健康な人間は、通常は多かれ少なかれ感情が顔に染み出る。」「そしてごく些細な表情の変化も、それが感情の状態を示す信号として他者に感知される。」表情は雄弁であるから、「たとえ無表情という形で超然たる立場を守ろうとしても、それがなぞめいた情報として作用してしまう」

「無表情は一種の緊張した表情を持続し」、「緊張した表情は緊張した精神状態を示唆する。」この精神状態を起こさせた理由や状況が判然としないとき、われわれは不安感を覚える。

こんなとき考えられるのは、①相手は私を嫌ってコミュニケーションを拒否している、②相手にとって私は存在していないも同然で、心は現実から断ち切られている、の2つ。

②の場合、「顔の裏側では差し迫った感情が昂ぶっているにもかかわらず、顔は、その内面と社会を隔てる壁としてしか作用していない。」統合失調症の人と相対したときに感じられる「一種の名状しがたい、取り付く島のない病的雰囲気としてのプレコクス感はこうした顔の表情である。」

無表情というのは感情が失われているのではなく、感情の昂ぶりがあるにもかかわらず、それを外界に対して適切に表現できないでいるときの表情なのだ。なんと苦しいことなのだろう。




No23 上野千鶴子 『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』 平凡社 2002年

キーワード:家族、住宅、住空間、コミュニティ
      
社宅やアパート、マンション、分譲住宅というように、決められた空間に合わせて住むことを強いられてきた者として、部屋や家というのは、もともと「使い勝手が悪いもの」という思い込みとあきらめがあった。

だから、住空間が指し示す「規範」としての機能的ゾーニングと、変化しつつある家族の住空間の使い方とのあいだにはギャップがあるらしい、という問題関心には「ああそういう関心のもち方があるのか」とちょっと驚いた。家族の変化を追いかけて、こうした問題関心に行き着いたとのことだが、1980年代からの関心というから、さすがである。

福祉施設の居住空間について、利用者にとっての快適さを追求する視点から議論がなされるようになったのは、ユニットケアとかグループホームとか、つい最近のことだ。家族のための「ハコ」同様に、「容れられる者」にとっての「ハコ」の意味を、建築家だけでなく、援助職も利用者ももっと関心をもつべきだ。

さて、いろいろ面白い指摘はあったのだが、特に関心をもった「選択性のコミュニティ」と「開いた居住空間」という2点を取り上げよう。

まず1点目。子どもや高齢者などの依存的な他者をかかえたとき、人々は家族を必要とし、育児、介護の社会化という機能を組み込んだコモンの空間を必要とする。こうしたコモンの空間は、居住の近接が強要するような地縁によるコミュニティではなく、選択縁による選択性のあるコミュニティである。

確かに、これはよくわかる。隣近所の人にプライバシーを知られたくないのが一般的な心情だし、ちょっとした手助けを必要とする高齢者のなかにも、地域の民生委員や隣人の助けはいやと言う人も少なくない。だから関心や理念を共有する人々と、元気なうちからネットワークを作っておこう、理念を共有する人々に連絡をとって支援を受けよう、ということになるのだろう。だが、それはしんどい話だな、と思う。選択してネットワークを作ることのできる「強い」人ばかりではないのだから。

介護保険でサービスの使い勝手は格段によくなったけれども、家族なしで、介護保険や福祉のサービスだけで、要介護の高齢者が安心して地域で暮らせるわけではない。「弱い」人には、選択的コミュニティづくりを援助職が支援するにしても、空間(近接)が媒介するコミュニティも、「安心」と「安全」な暮らしの確保のために必要だと思う。理念や関心が媒介する選択的コミュニティとともに、空間が媒介する新しいコミュニティづくりを急ぐ必要がある。

2点目の「開いた居住空間」というのは、介護保険が介護の社会化を推し進め、家族を開いたのだから、建築家は、それに見合って開いた居住空間を建築してほしい、ということである。
プライバシーに敏感な団塊世代が満足できる開いた家は、今後、どのように設計されるのだろうか?